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インフルだ!エンザだ!と周章狼狽する前に

May 17th, 2009 fukao No comments

新型インフルエンザによその人が罹ったとか罹らなかったとかで大騒ぎしていますが、とりあえずスーザン・ソンタグの『隠喩としての病』を読んでみてはどうでしょう?私が教員になりたてのころ、この原書をテキストに使って学生諸君に辟易された思い出がありますが、唯一私の言いたいことを理解してくれた学生は3年次で司法試験に合格しました。

今回の騒動で、騒動を起こすこと、あるいはその言説に組することは、無意識裡にであれ政治性を帯びているということが分かりやすく書かれている本だと思います。

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瀧野隆浩 『宮崎勤 精神鑑定書 「多重人格説」を検証する』 (講談社)

June 18th, 2008 fukao No comments

連続幼女誘拐殺人の宮崎勤死刑囚に対して死刑が執行されました。20年になるんですね。

彼が逮捕された頃はちょうど大学生で、場所は八王子、おまけに常人逮捕だったということで強く印象に残っています。夏の暑い盛りだったんですよ。もう、八王子警察の周りはマスコミでごった返し、ヘリも飛んでいたように思います。

やがて過熱する報道の中で「オタク族」という言葉がこの事件を理解するキーワードのように取り上げられ(彼の事件まで「オタク」という用語自体がマイナーで、私自身この事件をきっかけにして知りました)。大人になりきれないオタク族→屈折した性衝動→事件という図式が自明のように語られ、私自身も「そんなとこだろな」と思って済ましていました。

それから7年以上経ったある日、本屋の店先に積んである本書を見つけてたまたま手に取り、そして購入しました。著者の瀧野氏は毎日新聞の記者で、事件の頃はちょうど本町にある八王子支局に勤めていて、それ以来この事件の取材を続けていたそうです。

本書は長年の取材と多岐にわたる分析で簡単に紹介することはできませんが、その核となるのが次の一節です。

 捜査本部もそうであったように、検察側の主張も「異常な性欲=動機」説が基本になっている。つまり、成人した女性と付き合うことの出来ない20代の「おたく」の男がビデオ趣味に溺れ、幼女への異常な性衝動に突き動かされたーーというストーリーである。
 このストリーは非常に分かりやすかった。天皇がなくなって「昭和」という時代が終わり、時代はバブル前、リクルート事件で自民党の一党支配が動揺し始めた時期。漠然とした社会全体としての欠落感、不安感の中で、理解不能の彼をどうにかこうにか理解するための言葉が「異常性欲」だったのだろう。
 警察担当の当時の私もそう聞いて、分かった気になっていた。宮崎に「おたく」というレッテルを貼り、「我々と違う種類の人間」としてしまえば楽だったのかもしれない。
 ところが、鑑定書を読みながら私は愕然とした。宮崎の話を丁寧に聞いて書かれた鑑定書は全く雰囲気が違うのである。

以下、鑑定人とのやり取りが記載されています。私自身、著者と同様に「分かった気になっていた」のですが、これを読んでやはり同様に愕然としました。ここには、巷間言われていたような「異常性欲者」の面影もなければ、「偽りの狂気」も感じられません。そもそも「狂気」じみたところなどない、晩生の少年のような陳述だったからです。

私自身には、ここで展開されている「多重人格説」を云々する知識も経験もありませんが、本書は「多重人格説」を強力に推し進めているとか、あるいは死刑推進論者がよく捉え違えするように「故に死刑はいけない」と主張しているものではありません。柄谷行人が言うように、そして著者も服部雄一を援用しながら述べているように、「原因」と「責任」とを区別して論じているわけです。犯行の原因を吟味=批評することと、犯罪の責任を問うということは矛盾なく調和するはずです。

宮崎事件について知るだけでなく、そんなことを考えるヒントにもなる名著です。現在絶版のようですが中古で手に入ります。

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ジェフリー・アーチャー 『十二枚のだまし絵』 (新潮文庫)

July 8th, 2007 fukao No comments

私の好きな、そして仕事っ気抜きで気楽に読めるジャンルが探偵小説や法廷ミステリー、そして今日紹介する本のようなミニミステリーです。ジェフリー・アーチャーはロンドン市議会議員やコモンズの議員を最年少で務めた人物ですが、日本では小説家として有名であり、特に阿刀田高や星新一の短編に通じるストーリテラーとしての魅力とピリリと辛い風刺が効いた作風で私の好きな作家の一人です。この『十二枚のだまし絵』も、タイトルから分かるとおり12の短編からなっていて、一つ一つが実に味わいのある小品なわけです。

原題は Twelve Red Herrings. Red herring(燻製ニシン)とは「人の注意を他にそらすもの」という意味があり、転じて推理小説などで読者をミスリードするための仕掛けをさす言葉です。最後の訳者解説によれば12作品それぞれ、どこかに「燻製ニシン」に通じる言葉が出ているということです。ここでは実際に読むときのネタバレにならない程度に、各作品の魅力を紹介したいと思います。

  1. 「試行錯誤」 妻と浮気相手に謀られて無実の罪に落とされた男が、いろいろな人を味方につけて自分の無罪と相手の罪を暴露していく。軽妙な語りが面白い。
  2. 「割勘で安あがり」 100万ポンドの宝石が欲しい美人。愛人の金持ちは50万ポンドまでしか出さないという。さてどうやって手に入れる?
  3. 「ダギー・モーティマーの右腕」 苦労の末手に入れた品物を、ケンブリッジのボートクラブに贈るがあまり歓迎されない。どうして?
  4. 「バグダッドで足止め」 フセイン政権下のイラクから亡命し、政治犯として死刑を宣告された男。絨毯の買い付けでトルコからアメリカに戻る途中、エンジントラブルでバグダッドに着陸する羽目に。
  5. 「海峡トンネル・ミステリー」 女にだらしない親友に、新作の構想が出来たので聞かせたいと誘われる。聞いているうちに気まずくなる。
  6. 「シューシャイン・ボーイ」 セント・ジョージスの総督に命ぜられ政治家。近くマウントバッテン卿が来ると知らされて大慌て。
  7. 「後悔はさせない」 恋人を受取人に生命保険をかけた男。検査にパスした数週間後急死する、しかもエイズで。
  8. 「高速道路の殺人鬼」 そこは殺人鬼が出るというハイウェー。後ろのトラックがハイビームのままずっと自分の車を追いかけてくる。逃げ切れるのか?
  9. 「非売品」 才能ある画家は、しかし間違った男を愛してしまった。
  10. TIMEO DANOS ギリシアに旅行に行った倹約家の男とその妻。ギリシア陶器のお土産を買うのにもすったもんだ。
  11. 「眼には眼を」 最後タイトルが納得できるオチ。
  12. 「焼き加減はお好みで」 エンディングをお好みで選べる。私は3の「オーヴァーダン(焼きすぎ)」がよかった。

文庫は現在絶版のようですが、ブックオフなど古本屋で安く売っています。

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エラスムス 『平和の訴え』 (岩波文庫)

May 30th, 2006 fukao No comments

erasmus
高校生の頃『痴愚神礼賛』を読んで以来ずっと感じていたのですが、エラスムスはどこか不真面目な人であるという印象を持っていました。それは扉絵のところに載せられていたホルバイン作の、口元に皮肉な笑みをたたえたこの肖像画から来る印象だけではなく、もっと根源的な不真面目さです。しかも、あまり不快ではない不真面目さ。たとえば同じ諷刺をしてもスイフトなどは生真面目な感じがする。反語を弄しても安吾のほうがずっとまじめだ。それに比べてエラスムスは、これまた随分と不真面目な印象を受けました。しかし、倫理や世界史の教科書にも乗るエラスムスが田舎の高校生に「不真面目だ」の一言で片付けられるような存在であってはおかしい、そんな思いもあって、彼に対してはなんとなくちぐはぐな印象と漠然とした疑念を持っていました。

この疑念が氷解したのは何かの対談集(おそらく、批評空間だったと思います)で柄谷行人が、「真面目の反対は遊びではない、現実だ」と述べているのを読んだときです。私がこれまで「不真面目」だと思い込んでいたことが、実は「現実的」であったわけです。人は遊ぶとき、たとえばチェスをするときルールを無視してポーンを下がらせるような、不真面目なことはしません。そんなことをしたら遊びそのものが崩壊してしまうからです。つまり遊ぶときほど人はルールに対して真面目であるのです。一方現実的であるということは、真面目ではない。ルールに則った戦争などあったでしょうか。公約に真面目な政治などあるでしょうか。もちろん、条約なり公約を守ろうとする姿勢を権力は示しますが、それらは守られないことのほうが多い。しかし人はそれを「現実的な」選択や状況であったとして赦すわけです。

これを混同したらどうなるか?チェスに現実を持ち込んで、上司だから幹部だからポーンが右下に下がってもOKとしたらチェスそのものが崩壊するように、現実をあまりに真面目なルールやロジックで縛れば同じように悲惨な崩壊を引き起こすことになるわけです。それを防ぐためにこそ真面目=遊びと現実の弁別が必要なのです。マキャベリが言ったのもまさにこの点であって、幻想を打ち砕かれたり現実に倦み疲れたインテリをして「現実の政治なんてこんなものさ」と嘯かせるために『君主論』を書いたわけではないことは容易に理解できます。

エラスムスを読むとき聞こえてきた不真面目というペダルノートは、実際はこの現実主義であったのだと思います。エラスムスの伝記を読むと、教会の分裂と相次ぐ戦火の時代に遭遇し、教会の分裂という事態を何とか回避ようと試みながら、はからずもルター派と反ルター派の両方から批判され、国王たちににもその名声を利用されながら、彼らの逆手を取って自らの平和思想を公にする機会を得ていく、そんなタフで現実的な姿がうかがえるのです。幼い私はそれを、不真面目であると読み間違えていた。そしてこの現実主義と不真面目との混同を払拭すると、そこに見えてくるのはエラスムスの強烈な理想主義、しかも現実に耐えそれを乗り越えようとする希望に満ちた理想主義なのです。

erasmus
そんな理想主義者のエラスムスは『平和の訴え』でこう述べています。

君主たちは自分のためにではなく、民衆のためにこそ英明であるべきです。また君主は、自分の威厳や幸福、力や栄光を、君主を真に偉大かつ抜群たらしめる事績によって測るだけの名識を備えているべきです・・・・こうして国王は、最良の人民を統治するときに自らを偉大と考え、人民を幸福にしたとき初めて自らを幸福と考えるべきです。また国王は、完全に自由な人間を支配する場合こそ真に高貴なのであり、人民が富裕になって始めて自らも富裕なのであり、諸都市が恒久平和に恵まれ繁栄する時、始めて己も繁栄するものと考えるべきです。(49節)

この一節に、皮肉なエラスムス像を読み込むのも、非現実的な理想主義を読み込むのも自由ですが、それは読む側の気持ちの反映なのであって、エラスムスの問題ではないわけです。現実主義を標榜する政治学者たちがイロニッシュな御用学者となってしまったり、反対にあまりに現実とかけ離れた理屈を整然と展開し(現実という変数を捨象すればたいていのことは整然となりますが)現実を見くだした姿勢をとるのは、どちらも理想と現実という、永遠に和解することのない二重性の重荷に耐え切れなくなって、前者は幻滅し後者は逃避しているのだと私は思います。

国家間、民族間の対立と反目についても簡潔な筆致で、

イングランド人はフランス人を敵視していますが、その理由はといえば、それはただフランス人であるということのほかは何もないのです。イングランド人はスコットランド人に対し、ただスコットランド人であるというだけのことで敵意をいだいているのです。同じように、ドイツ人はフランス人とそりが合わず、スペイン人はこれまたドイツ人ともフランス人とも意見が合いません・・・・名前のような取るにたりない事がらが、かずかずの自然の結びつきやかずかずのキリストの絆より一そう強い力をふるうとは、どういうことでしょう?(59節)

と、その愚かで無根拠な本質を暴きます。

そして、平和への方途を民衆の自覚へと向けていきます。

キリスト教徒の名に誇りをもつすべての人びとよ、心を一つに合わせて戦争に反対の狼煙をあげてください。民衆の協力が専制的な権力に対してどこまで抵抗する力があるかを示してください。この目的のために各人はそのすべての知恵を持ち寄っていただきたいのです。(74節)

大多数の一般民衆は、戦争を憎み、平和を悲願しています。ただ、民衆の不幸の上に呪われた栄耀栄華を貪るほんの僅かな連中だけが戦争を望んでいるにすぎません。こういう、一握りの邪悪なご連中のほうが、善良な全体の意志よりも優位を占めてしまうということが、果たして正当なものかどうか、皆さん自身でとくと判断していただきたいもの・・・・戦争は戦争を生み、復讐は復讐を招き寄せます。ところが、好意は好意を生み、善行は善行を招くものなのです。(76節)

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中島敦 『李陵・山月記』 (新潮文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

李陵・山月記

中島敦を知ったのは、他の人と全く同じように高校の国語の教科書で「山月記」を読んだ時でした。最初は漢語ばかりで教科書の下段にあった注釈もうるさく非常に取っつきづらそうな印象で、むしろ心に残ったのは章末に載っている中島本人の写真、牛乳瓶の底のような眼鏡が特徴のあの写真でした。しかし、声に出して何度か読んでみると非常に調子がいい。「隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」とか「厚かましいお願いだが、、彼らの孤弱を憐れんで、今後とも道塗(どうと)に飢凍(きとう)することのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖(おんこう)、これに過ぎたるは莫(な)い」なんていう一節を読むと、その前進的なリズムに魅せられるわけです。

この文庫は中島の作品の中から「山月記」「名人伝」「弟子」「李陵」の4編を選び出した短編集で手軽な一冊です。「山月記」は唐代の李徴が虎になってしまう一種の変身譚が、上にも引用したように漢文学的なリズムと筆致で描かれています。自らが虎に変身してしまうまでの告白には男の生き方について深く考えさせられる思想が、時に漢語、時に撞着語法、時に対句を用いながら説得力をもって語られます。人間であった頃の自分を振り返り、李徴は「己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々とし瓦に伍することも出来なかった」と語ります。この「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」というのは一見オクシモロン(撞着語法)に見えますが、良く考えれば自尊心とは時に臆病さが反転したものであり、羞恥心ゆえに尊大に振る舞う人が多いことも理解できます。そしてこの一編の核心的な一節に至ります。

人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

次の「名人伝」は「道」というものの深さを描いたと言えばそうなのかも知れませんし、その背骨にはいわゆる老荘思想があるのかも知れませんが、用いられているイメジからするととても滑稽な話としても読める一編。主人公紀昌は弓の名人になりたくて、飛衛という名人を訪ねると、瞬きをしない訓練を命じられる。すると刻苦勉励してついには目に蜘蛛の巣が張られるまでになる。今度はものを見る訓練を命じられると蚤を飽かず眺め続け、ついには馬ほどにも見えるようになる。こうなると、邪魔なのは師匠飛衛の存在。これを除こうと弓の勝負を持ちかければ、飛衛も我が身が危ないと分かり、弟子の気を他へ転じさせるため、さらなる弓の名人甘蝿老人を紹介し難を避ける。紀昌はこの老師を訪ね、ついには弓の名人中の名人、芸道の深淵を身につけるという話です。なんとなく滑稽感が漂うものの、そこにわずかな皮肉や諷刺もない飄々とした物語が魅力的です。

「弟子」は孔子とその弟子、子路を描いた短編で、一続きの物語というよりも、断片的なエピソードで綴られています。子路は孔子の弟子の中でも特に変わり者だがまっすぐな男で、その心の奥底には単純だけれど深い一つの疑問が横たわっているのです。それはなぜ「邪が栄えて正が虐げられるのか」という疑問です。こういう真っ直ぐな男ですから、師弟の道もまた純粋なもので、「後年の孔子の長い放浪の艱苦を通じて、子路程欣然として従った者は無い。それは、孔子の弟子たることによって仕官の途を求めようとするのでもなく、また滑稽なことに、師の傍に在って己の才徳を磨こうとするのでさえもなかった。死に至るまで変わらなかった・極端に求むるところの無い・純粋な敬愛の情だけが、この男を師の傍に引き留めたのである」と述べられています。この人物像を読むと、私は司馬遼太郎が『項羽と劉邦』の中で描いた平国候候公を思い起こします。彼もまた「食客」に徹して一種の客哲学みたいなものを信奉していた変わり種でした。こうした純粋さは、滅多に見られない徳であるため高く評価されますが、同時に純粋性というものの持つ融通の利かなさが悲劇をもたらします。子路も候公も少し悲しい末路を迎えることになります。いずれにしても「弟子」は「弟子のあり方」について深く考えさせられる作品です。

最後の「李陵」は、武帝の時代に対匈奴最前線に送られ、善戦するも捕らえられてしまい、讒言によって妻子眷属を刑戮された前漢の将軍李陵と、彼を満座の中で弁護したために宮刑に処されるも、その苦難をバネに『史記』を書き上げた司馬遷の物語です。この短編もまた非常に印象深い作品です。李陵が匈奴に下ったという噂が流れ、武帝が激怒するや、その顔色を見た群臣が口々に李陵を罵ります。しかし「今口を極めて李陵を讒誣(ざんぶ)しているのは、数ヶ月前李陵が都を辞する時に盃をあげて、その行を壮んにした連中で」あったし、「漠北からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えた時、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃えたのも又同じ連中で」あったのです。このことに疑問と憤りとを感じた司馬遷は下問を受け、はっきりと李陵を弁護し変節の群臣達を「全躯保妻子の臣(躯(からだ)を全うし妻子を保つの臣)」と罵倒し、このため宮刑(男性の生殖器官を切り取る刑罰)を受けることになります。現代にも、そして私の周りにもこうした群臣のような連中はたまにいます。それまで「立派な人だ、凄い人だ」と褒めちぎっていたにもかかわらず、何かの不運に巻き込まれて、たとえば「哭いて馬謖を斬る」ような目に遭うや掌を返したように、悪口を言い始める連中です。こうした「全躯保妻子の臣」はいつの時代にもいると共に、自ら「私は偽物ですよ、皆さん」と語っているに過ぎないのす。決して信用できない人間であることを自ら告白しているのです。こういう人間には決してなりたくありませんよね。司馬遷への迫害とそれを克服して『史記』を完成させるドラマについては『語らい』の「迫害と人生」でも語られているので、ご存じの方も多いでしょう。

漢語も多いのでなかなか骨の折れる作品ですが、短編という体裁と物語という形式、そして思想に深みがあるので、案外に読みやすくはまりやすい作品集だと思います。また岩波文庫の『山月記・李陵 他九篇』のほうはもっと収録作品が多いので(上の4編に加えて7編)こちらもお薦めです。ぜひ読んで下さい。ところで、冒頭に述べた中島の写真、私はいつも滝廉太郎とイメージがかぶってしまい、いまだに混同し続けているのですが(笑)。

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ディケンズ 『我らが共通の友(全3巻)』 (ちくま文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

我らが共通の友

現代のように様々な娯楽や情報がなかった時代に書かれた文学は、時に背表紙を見ただけでたじろいでしまうような厚さのものがあります。トルストイやドストエフスキーなどロシア文学、今回紹介するディケンズやサッカレーのようなビクトリア朝文学などにその傾向が強いと思います。しかし、厚さと読みやすさというのは当然のことながら無関係で、フランス系実存主義文学などでページ数が少ないからと安心して読み始めると、難解な言い回しの連続で、読み終えるのに3日ぐらいかかることがあります。かと思うと反対に、勇気を出して長編小説を読み始めたら、内容の面白さやテンポのよさに惹きつけられて一晩で読み終えてしまい、翌日寝不足でつかいものにならなくなることだってあります(笑)。この『我らが共通の友』も一晩がかりで読み終えて大きな感動を得た小説です。

実はこの作品、もともとは原書を訳者の間先生のゼミで読んだのですが、原書であるということや1年で読み終えるように抜粋を読んでいったこと、それと専門の英詩ではなく散文であるということでかなり手を抜いて下読みしていたためあまり筋を理解しないまま1年を終えてしまいました。この翻訳が出版されたとき間先生からいただいたのをきっかけに、改めて読み直し大きな感動を持って読み終えました。

本書のテーマは、ずばり「金」と「欲」です。最近の日本でも資本制を「市場経済」などと言い換えて中性化し、その便利な言葉を旗印にずいぶん下品ではしたない意見が平然と語られていますが、この小説もまさにそのようなはしたない時代のロンドンを舞台としています。ゴミ屋で産を成した父親の死にともなってアメリカから帰国したジョン・ハーマンが何者かに襲われ、テムズ川で死体となって発見されます。行き場を失った遺産(ゴミの山)は使用人であったボフィン夫妻のものとなります。そこへロークスミスと名乗る男がやってきて秘書として雇われますが、やがてベラという女性(彼女は本来、遺言によりハーマン氏と結婚することになっていた)と恋に落ちます。

一方、川底浚いの娘リジーと弁護士ユージン、小学校教師のヘッドストーンとの三角関係がそれと平行して語られます。最後に、あるものは死を迎え、またあるものは悪事を暴かれ、あるいはゴミの山に放り込まれ、またあるものは真の愛を手にしてクライマックスを迎えます。もっと細かく書いてもいいのですが、この小説はミステリーの要素も含まれているため、あまり詳しく書いてしまうとネタばれになるので曖昧に紹介しておきます。

私はディケンズをすべて読破したわけではないので、これが一番であるとかどれが一番であると言うことは出来ません。しかし、これが社会風刺や道徳的良心、心理描写や人物描写にすぐれた作品であることは疑いありません。その上にミステリーの要素まで含まれているので、はまってしまえば一日や二日で読んでしまうでしょう。夏休みの読書として薦められる一冊です。

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平井正穂編 『イギリス名詩選』 (岩波文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

イギリス名詩選

保育園の頃から落ち着きなく出歩き、小学校の通知票の「生活態度」欄(こんな内面に踏み込むな、、と子供の頃から思っていました)では6年間「落ち着き」が最低評価。目に付くもの、興味が沸いたものに何でも飛びつき、高校の時に知った "Jack of all trades, and master of none"(訳す気にもなれない)は自分のことだと悟って開き直って生きてきた私が運営するサイトだから仕方がないのかも知れないけれど、まぁショックな出来事がありました(笑)。ある学生さんからの質問:「先生はジャズミュージシャンでアメリカ生活をしていたから、英語を教えているんですか?」

・・・

まぁ、たしかにこのサイトも英語や文学よりも、ジャズの方に力を入れているきらいがあるから仕方ないかも知れないけれど誤解ですね。私は英文学者です。それも18世紀の古典主義詩人の研究。ジャズなんか聴いている暇があったらハンデルやモーツアルトのシンメトリカルな構成でも聴いていればいいのかも知れませんが、とにかく18世紀プロパーです。そんな意味で、今日は英詩のアンソロジーを紹介しておきます(笑)。

英詩のアンソロジーというとパルグレイヴのGolden Treasury が有名ですが、本書もそれに負けないほどすぐれた詩集です。手に取れば分かることですが、ページの左側に原文が、右側に対訳の日本語が載っています。英語が全く分からないなら仕方ありませんが、不得意だという程度の人なら対比して読めるようになっています。また脚注もうるさくない程度に付いているので詩の理解を助けてくれると思います。

詩の構成は、比喩やイメジのような意味的要素と、韻(rhyme)やリズム(rhythm)のような韻律をはじめとして用いられている語音が生み出す楽音的な要素が結合して成立するので、いつまでも訳で詩を読んでいたのでは正しい理解にいたらないと思います。この詩集は19世紀のロマン主義一辺倒ではなく、イギリス・ルネサンスからシェイクスピア、ミルトンを経て、ドライデン、ポウプ、グレイ達も取り上げられ、一方で現代の詩人にもかなりのページを割いているのでバランスがよいと思います。本詩集を読んで気に入った詩人を見つけたら、同じく岩波から「イギリス詩人選シリーズ」という個々の詩人を取り上げたアンソロジーが出ていますからそちらをご覧になるか、私に直接質問して下さい。お答えできる範囲でお答えしたいと思います。

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アーサー・K.Jr. ウィロック 『フェルメールとその時代』 (河出書房新社)

May 26th, 2006 fukao No comments

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The Universe of English (下記参照)の冒頭は絵画論で、テーマは16-7世紀のオランダ絵画でした。その中でももっとも有名なのがこのデルフトの画家ヨハネス・フェルメールです。本書は2000年(日蘭交流400周年)を記念して開かれた「フェルメール展」の図録です。大判のわりに安いのでネットで購入しました。

フェルメールが活躍したのは17世紀のオランダ。デカルトをして砂漠と言わしめた資本制の発祥地です。したがってフェルメールの作品に描かれているのは、当時勃興しつつあった資本制を背景とした「家庭」の姿と、プロテスタント的な倫理観を伺わせるような、禁欲的で静謐な世界です(興味深いことに、フェルメール自身は最初プロテスタントでしたが、妻との結婚を機にカトリックに改宗したといわれています)。

日本では印象派の絵画に人気が集まっているせいか、絵は「鑑賞するもの」「見て感じるもの」という側面が重視されますが、西洋ではルネサンス絵画はもとより、オランダ絵画や印象派においてすら「読み解くもの」「読んで理解するもの」という側面が同じように重視されています。それは図象学的な興味だけでなく、歴史的な引喩や時には数秘学的なメタフォーすらも読解の対象となります。本書ではフェルメールの全作品と、同時代の画家達の作品を何点か載せ、それを様々な角度から読み解いています(なぜかフェルメール以外の作品の方が大きく掲載されているんですよね・・・)。もしこの本をみてフェルメールに興味が沸いたら次に紹介する本も推薦できます。

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フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡』(NHKブックス)は小林頼子氏が書いた本で、吉田秀和賞を受賞したすぐれた美術評論です。フェルメールの生涯から説きおこし、構図の工夫や遠近法の推移と発展といったザッハリヒな評論を経て、風俗画を中心に歴史と文化、社会の問題に言及しています。そして死後における受容の変遷と真贋問題を最後に取り上げ、まさに「過不足のない」フェルメール論となっています。よく考えると、むしろ最初にこちらを読んだ方がいいかもしれませんね。美術のみならず、西洋社会史やキリスト教、あるいは文学に興味のある人も目を通すべき一冊だと思います。

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『泣くものか―作文集』 養護施設協議会(亜紀書房)

May 26th, 2006 fukao No comments

先日警察庁から昨年一年間の児童虐待死が報告されましたが、49件ということでした。この数が多いか少ないか私には分かりませんが、少なくとも死に到らない虐待の数は相当なものに上ると思います。

本書はもう30年も前の昭和50年代にまとめられた、施設児童による作文集です。親の虐待や育児放棄などによって施設に入所した子供達の生の声が聞こえてくるような一冊です。時代の違いがあって「昔は経済的な貧困による虐待が多かったが、今は豊かな時代なのに精神的な貧困から虐待が発生する」という言い方がよくされますが、それはちょっと違うのではないかと思います。現実的な貧困と「貧困感」は違います。昭和50年代といえばまだ日本は総じて貧乏でした。したがって貧乏であってもそれほど「貧困感」は感じなかったように思います。うちも貧乏でしたし。一方、現在は小金持ちと貧乏人とに分裂した格差社会になりつつあります。こうなると、人間の貧困感というのは増大するわけです。なぜなら、何度でも言うように「欲望とは他者の欲望」なのですから。

一般に虐待は遺伝すると言われます。虐待を受けて育った子供は自分の子に虐待をすると。わたしはこういう言い方もどうかなと思います。心の問題は関数の問題と違って「Aすれば必ずBとなる」わけではないのですから。むしろBという結果からAという原因が事後的に導かれるに過ぎない。これを構造論的因果論といいます。しかし、テレビによく出てくる心理学者などはこうしたことをすっ飛ばして、「こうすればこうなる」風のことを吹聴しています。これではもはや占いや予言のたぐいであって、心理学者も細木数子も大した違いはなくなります。さらに、「心は影響を受ける」という側面も見逃せません。「虐待されて育った子供は虐待する」と言われ、それを気に病んでノイローゼになって虐待に走ってしまうということだってあるのではないでしょうか?

と、本書にはあまり関係のないことを語ってしまいましたが、これが書かれて編纂された頃は、まだ今のように「アダルト・チルドレン」という概念などが作られていなかった時期のものです。タイトルも「泣くものか」です。今なら「泣いてもいいんだよ(人間だもの)」風のタイトルにされてしまうでしょう。しかしながら、この古い作文集、なかなかに手強い内容で、ここで語られていることは普遍的な問題であるような気がします。

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椎名誠 『哀愁の町に霧が降るのだ(上下巻)』 (新潮文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

哀愁の町に霧が降るのだ
椎名誠を最初に読んだのは、大学4年生の時、親しかった後輩から薦められたのがきっかけでした。たしか『インドでわしも考えた』だったと思います。なぜならば、当時「印度天竺文化研究会」(通称「印天文」)を作ろうなどと騒いでいて、ならば一冊インド物を読もうという話になったからです。しかし、読むべき本がガンジーでもなければ堀田善衛でもないところからも分かるとおり、単なる冗談でした。たぶん動機も「インドは美人が多い」とかなんとか、そういう不純なものだったはずです。

こうした不純な動機で作ろうとした印天文は単なる空騒ぎに終わったのですが、私はここ(『インドでわしも考えた』)にちりばめられている言葉に魅せられてしまい、ズルズルと椎名誠にはまっていくことになりました。今回取り上げる『哀愁の町』はエッセイ風味の小説で、詩と真実が上手いぐあいにミックスされている秀作です。その頃ちょうど、滝山寮時代の馬鹿馬鹿しくも面白い出来事を綴ろうと考えていた私は、「なんだ、こんな感じで書けば簡単じゃないか!」と早とちりして早速筆を執ったのですが、まったく読むと書くとでは大違い、全然「こんな感じ」には書けないで苦労した思い出があります。

最近ではあまり見かけなくなったボロいアパート「克美荘」を舞台に、椎名をはじめ沢野ひとしや木村晋介ら、のちに怪しい探検隊として有名になる「東ケト会」メンバーによる若き日の共同生活がヒューモラスに、そしてなんとはなしの懐かしさや哀しさを含んで描かれています。だから哀愁なんでしょう。この読後感、何かに似ていると思っていましたが、映画『スタンド・バイ・ミー』なんですね。スタンド・バイ・ミーは少年たちが主人公でしたが、こちらは思春期をそろそろ越えた男達。でもやっていることはなんか似通っているんですよね、ほとんど進歩がないのかもしれません。仲間さえいれば、若さにまかせて何でもできる、そんな青春のおはなしです。

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能登路雅子 『ディズニーランドという聖地』 (岩波新書)

May 26th, 2006 fukao No comments

ディズニーランドという聖地
授業で話をしたり、レポートやログを集めたりしていると痛感するのですが、今の学生達は「ディズニー」という言葉に対して敏感に反応、しかも肯定的に反応する人が割と多いですね。先日の授業でも左翼系の学術誌New Internationalistの記事を読んだのですが、レスポンスが非常に多くありました。今回紹介するこの一冊はThe Universe of Englishの中の一編 "Disneyland: America's Sacred Land"の元となった本で、どちらも能登路先生が書いたものです。おそらく英文の方は本書を簡約し英文で書き下ろしたものなのでしょう。平易な筆致で語りながら、しかしディズニーランドの持つ文化的・国家的意義を説得力豊かに描き出しています。

この本を楽しいディズニーランドガイドだと思ったら大間違いです。またディズニー賛美の本でも決してありません。むしろ、ディズニーランドの持つ政治的、文化的なイデオロギー性、大衆操作やイメージ形成の戦略を克明に分析した一級のディズニー批判です。しかしこの本に惹きつけられるのはなぜでしょう?そこには、自ら理解したことを、よけいな概念やイデオロギーを押しつけることなく誠実に書いている著者の誠意が見えるからではないでしょうか。

一般に、身近な話題から文化論・文明論を展開する本の中には、途中で信じられないぐらいの論理の飛躍があったり、唐突に難しい学術用語がでてきて煙に巻かれたと思ったら、あれよあれよという間に牽強付会な結論に辿り着かされていたりというものがあります。かと思うと反対に、すっきりと筋は通っているんだけれど、出された結論を読んでも「それで一体どうしたっていうの?」とこちらが訊きたくなるような、毒にも薬にもならないどうでもよい話題を展開しているものもあります。しかし本書は等身大の話題から出発し、よけいな中間概念を駆使することなく話を展開し、毒にも薬にもなるアメリカ文化論に到達します。素材と形式、そしてテーマが見事に合体したすばらしい文化論だと思います。

こういう書物を読むとき、そのテーマや結論を云々する以前に、ここで実演されている「知の技法」に目を向けるべきだと考えます。ディズニーランドをどう思うか、ディズニーランドとは何か、という点で著者と読者の意見が食い違ってもいいし、食い違うのは当然のことです。しかし学問研究の手続きは共通のものですし、開かれたものです。今は忙しいでしょうけれど、夏休みに入ったら著者の手法や誠実な論理の展開に注意を払いながら、じっくりとこういう本を読んでみたらどうでしょう?得るものは大きいはずです。

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カント 『啓蒙とは何か』 (岩波文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

啓蒙とは何か

カントのもたらした比類なき転回とは、それまで迷信のようなものが理性の正しい使用を妨げ、その結果人は誤ると考えられていたものを、むしろ理性そのものの中に誤謬の原因があると指摘したことでした。これが一般的な「啓蒙思想家」達とカントという一人の思想家との決定的な違いです。このことを行ったのは『純粋理性批判』という大著においてでしたが、もう一つそれに匹敵するほどの大転回を成し遂げているのがこの『啓蒙とは何か』です。

一般に私たちが「ホンネと建前」というとき、ホンネというのは私たち自身の直接的な思いであり、一方建前とは共同体の一員としてそういわざるを得ないような嘘を指すことが多いわけです。したがって、ホンネとはプライベート(私的)な思い、建前とはパブリック(公的)な思想である、このように私たちは漫然と考えているわけです。

カントはこれを鮮やかに転回してしまいます。

自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい(中略)ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、---公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。

これは当然、学者の特権をいったのではなく、一人の人間が職業人として発言する場合には私的(プライベート)な発言であるが、一人の人間として発言する場合には、それは公的(パブリック)な発言である、という意味である。これは私たちの抱く「プライベート?パブリック」とは全く逆向きの発想ではないでしょうか?

たとえ会社のことや世間のことをおもんぱかって「建前」を並べ立てても、それはあくまで会社や世間(あるいは国家)という私的共同体のプライベートな価値基準にすり寄ったに過ぎない、それに対して一個の人間として理性を(何ものにも妨げられることなく自由に)使用することは、パブリックに考えることであるというのがカントの言っていることなのです。それに対して私たちがいうホンネとは、理性を使用していない状態、自由とは反対に自分の欲望に(そして欲望とはヘーゲルがいうように実は常に他者の欲望です)隷属している状態に過ぎないのです。私たちがこの本から学ぶべき大切なことは、一個の人間として自立して考えることであり、そのためには「勇気」が必要であるということです。そしてカント自身が、まさにここに書かれているように自立して、パブリックに考えたことを問うていることが私たちを感動させ、勇気を与えるのです。真に勇気づけられる書物というのはこういうものを指すのだと思います。

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東京大学教養学部英語教室 The Universe of English (東京大学出版会)

May 26th, 2006 fukao No comments

二年ほど前までは、ほとんど毎年といっていいほどこの書物をテキストとして使用していました。数年間、この続編というかリニューアル版The Universe of English 2を使ったこともありましたが、2は1の持っている魅力を嘘のようになくしてしまい、悪い本ではないもののふつうのアンソロジーになってしまったのは不思議に思えます。1を編むときに漲っていた未聞のプロジェクトに取り組むワクワク感やグルーヴ感が、2では自動化され、ルティーン化されてしまったのでしょうか。それとも1を越えなければという意識が、かえって力みになってしまっていたのでしょうか。

Part 1冒頭の絵画論から既に魅力いっぱいです。オランダの画家デ・ヴィッテとフェルメールの作品をもとに17世紀のオランダ---デカルトのいう砂漠---で発達した資本制とそれに伴う家族の変容が彼らの絵画の上にどのように表れているかを、簡潔な文体で分析されています。

以降「分離脳研究」から分かった右脳と左脳の働き、ベイトソンの名著から視覚像形成のプロセス、ばい菌と食べ物の戦いと続き、本書で最も重要だと思われる「エッフェル塔」の一編にいたります。この「エッフェル塔論」はバルトが下敷きになっていると思われますが、ハイデガーやショーペンハウエルらの思想がちりばめられ、近代批判のテクストとしても読解が可能な多重的なものです。自分で読むのも大変なら、他人にここに書かれていることを伝えるのはまして大変なことですが、それだけに相手に伝わったと感じられたときには一種のグルーヴ感が生まれるんですね。

Part 2以降も、「宇宙論」「進化論」「労働市場の発生」「ディズニーランド」「縮み志向の日本人」等々刺激的な文章にあふれています。毎日英字新聞を読むのは大変だ、一冊の小説を読み通す根気がなかなか続かないと考えている人は、この本を読んで英語の勉強に再挑戦してみてはどうでしょうか。

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板坂 元 『考える技術・書く技術』 (講談社現代新書)

May 26th, 2006 fukao No comments

考える技術
著者の板坂先生は短大で副学長をされていたのですが、私にとっては文章作成法の恩師です。先生の授業で用いたテキストがこの『考える技術.書く技術』でそれまで中学・高校と「心に浮かぶことを書きなさい」「自由に考えて書きなさい」と作文教育をされてきた私にとっては鮮烈な印象をもたらす本でした。先生の授業と翌年のテッド・ミラー先生の英語表現演習のふたつが私にとって作文技法の原点であり、今でも文章を書くときはこれらの授業で学んだことをイメージしながら書くことが多いのです。

本書では発想法から情報収集と、カードを使った情報の整理法。そして最後にカードからの脱出が手際よく説明されています。しかしこの本でもっとも興味をそそられ、そしてもっとも大きな影響を受けたのは「黄色いダーマトグラフ」と「京大式カード」の下りです。ダーマトグラフというのは鉛筆削りのいらない色鉛筆で、現在のマーカーのような使い方をするものでした。もちろん当時から蛍光マーカーはあったのですが、文庫などに使うと裏側に抜けるのでこのダーマトグラフを用いたわけです。詳しくは三菱鉛筆「鉛筆なんでもQ&A」を見てもらえれば分かると思います。これは私のみならず、私の周りでも結構流行していました。むかし自分が読んだ本を見返すと、ところどころ黄色い線が引かれていて当時のことを思い出します。

京大式カードとはB6サイズの横型カードのことで、ここに思いついたことを書き込んではボックスに投げ込んでいき、ある程度たまると整理するのですが、そのとき見出しの立て方が悪いと非常に苦労するわけです。そこで本書では「逆ピラミッド型」「動詞を含む短文を見出しに使う」といったふつうとは逆の発想でカードを整理する方法を薦めています。

「文章の書き方」「論文作成法」のたぐいは現在巷にあふれかえっていますし、もっと実用的でほとんどプログラムのような体裁のものも出ています。しかし、本書はそれら実用書とは一線を画した古典的なたたずまいを備えた本です。読み物としてもおもしろいことがその印象をいっそう強くしています。続編もありましたが、現在絶版のようです。

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ホメロス 『イリアス(上下)』 (岩波文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

イリアス
テニスンの邦訳で有名な入江直祐先生はいい意味での教養人で、学術論文のたぐいはほとんど書かないものの、若い頃は芥川龍之介に気に入られ、その西洋文学に対する造詣の深さはでは人後に落ちない方でした。この先生がお辞めになった頃から、大学にも教養人のいる場所が徐々に少なくなり、いまではアメリカ風の "Publish, or perish"(出版せよ、さもなければ消えよ)という殺伐たる成果主義と、財界におもねったような中途半端な実用主義に陥って、幅の広い話を聞く機会が減ってしまったのは時の流れとはいえ残念なことです。

ある時先生に「まず絶対に読んでおかなければならない作品は何でしょう?」と伺ったことがありました。先生は即座に「ホメロス、ダンテ、シェイクスピアだね」。それだけおっしゃると、後はニコニコしておられる。入江先生はそういう方でした。自分で読んでみて、なぜそうなのかは自分で理解せよということだったのでしょう。

『イリアス』はいまから2700年前に成立した叙事詩で、それまで口承で伝えられていたものをホメロスが文字に表したといわれています。舞台はトロイア戦争末期。ストーリーについては「トロイア戦争」を調べ、「パリス」「ヘレネ」「アキレウス」「アガメムノン」「ヘクトル」らの名前とあらすじを頭に入れてから読んだ方がいいでしょう。口承文学をルーツにもつため「脛あてよろしき」アカイア人とか「口前の甘い」ネストアーといった枕詞が煩いほどにつけられていて筋が分からなくなってしまうからです。特に私たちの頃は呉茂一氏の訳が一般的で、原文の風味を強く残した名訳といわれていましたが、その分読みづらいところもありました。一方、上にも紹介した岩波版は散文による新訳で、冒頭には各章の梗概がつけられているなど読みやすくなっているようです。

人間の争いと平行して、神々も二派に分かれて争う。それどころか、人の争いに油を注いだり、火をつけて回ったり散々な神様達と、身勝手な英雄達が跳梁跋扈する叙事文学。ニーチェがある種の憧憬をもっていう「強いことがすなわち正義であった時代」を舞台とする、現代の目から見ればかなり破天荒な叙事文学をいつかタイミングを見つけて読んでみてはどうでしょうか。

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森鴎外 『山椒大夫・高瀬舟(他四編)』 (岩波文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

山椒大夫・高瀬舟
鴎外が晩年に書いた歴史物は、司馬遼太郎や吉川英治らの書く「歴史小説」とはちょうど反対のベクトルを向いています。司馬遼や吉川の歴史小説は大きな時代、あるいは時代精神という物語のもとで、登場人物が意志を持ちそれを実現しようと行動し、あるいは成功しあるいは失敗する物語が交差することによって織りなされているのが特徴です。私たちはこれらを読んでいてワクワクし、時に共感し時に反発を感じるわけです。

一方、鴎外の歴史物はというとまず、大きな時代精神のような物語の枠組みがないのです。いきなり人が出てきて、おまけにその人はもうすでに何かを「してしまった後」だったりするわけです。そして何かを「しでかしてやろう」とか、これを達成しようという意志を持たぬままに何かをしでかしてしまい、しでかしたことに対して呆然としているのです。いかにも怪しげな山岡大夫の船に乗り込み危機が迫っているのに母親は大夫にあらがうことができない。無知だからでもない、臆病だからでもない、「自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきり分かっていない」のです。

「高瀬舟」の喜助にしてもそうです。ここに安楽死の問題を持ち込むことは簡単ですが喜助自身はそのことに気づいていません。というよりどうしてこんなことをしてしまったのか途方に暮れているのです。「あとで思ってみますと、どうしてあんな事ができたかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます」と自分のとった行動に何らかの意味や目的を見いだせずにいます。一般に物語、あるいは物語る欲動というのは意味と関係づけられます。物語に出てくる登場人物は常に意味のある行動をとります。そして物語る欲動とは自分の(あるいは他者の)行動に意味を付与したい欲動なのです。これに対して喜助は物語る欲動をもっていないのかもしれないし、あるいはもつ必要がなかったのかもしれません。いずれにしても、喜助は自分の行為の意味をあれこれ詮索したり、自己弁護の物語をとうとうと論じ立てずに淡々と出来事を語ってゆくのです。

鴎外の歴史物にはこうした「物語る欲動」をさっさと捨ててしまったようなところがあります。さらに「物語性」の排除をだめ押しするのが、話の最後につけられた「縁起」あるいはエピローグです。本来エピローグは、クライマックスに達した物語の余韻を響かせるために置かれているものなのですが鴎外の場合は全く違います。「最後の一句」では「いち」の言葉に関連してマルチリウム(自己犠牲)の問題に言及していますが、結局父親が助命されたのは、こうした精神的な理念からではなく「当時の行政司法の、元始的な機関が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹」してしまったという事情がエピローグにつづられているのです。エピローグをもって「物語性」を排除するため、上の一冊には収録されていませんが「大塩平八郎」そして「興津弥五右衛門の遺書」にいたってはただの年表、あるいは家系図を延々書き連ねています。

歴史というものを大きな物語としてとらえ、あるいは歴史を物語る欲動にとらわれていさかいを繰り返している現代において、鴎外の歴史物がもたらす有効性というのは決して低くないと思います。

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シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』(岩波文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

ジュリアス・シーザー
シェイクスピアの諸作品のうちで、初学者にも取っつきやすいのは『ロミオとジュリエット』と今日取り上げる『ジュリアス・シーザー』だといわれています。『ロミオ』は何度も映画化されてプロットがよく知られていることと、「はじめて読む」ということはとりもなおさず若い人が対象となるので「恋愛ものがいいだろう」という感覚も含まれて初心者向けとなっているわけですね。私も大学に入ってはじめて読んだのがこの作品で(学祭で『ロミオ』の展示をやることになり読みました)したが、あまりの饒舌さにたじろいだ記憶があります(マブの女王の下りなど)。あとは、なぜか乳母の声優をやらされて妙なババアの声色で台詞をテープに吹き込んだことが記憶に残っています(笑)。

『ジュリアス・シーザー』はシェイクスピアの作品としては、英米の学生が最初に教科書で触れるものです。それはプロットがしっかりと凝縮されている点、散文と韻文(ブランク・ヴァース)で巧く書き分けられている点などが教材としてうってつけだからでしょう。プロットはシーザーの凱旋からはじまり、キャシアス?ブルータス一味の陰謀、シーザー暗殺、ブルータスの演説、アントニウスの演説をへて、内乱?キャシアス・ブルータスの滅亡までが描かれています。実際には数年にわたる出来事が凝縮された筆致で、あたかも数日の出来事のように思わせるのはこの詩人の得意とするところです。

この作品を特徴づけているのは、ブルータスとアントニウスの演説です。シーザー暗殺でざわめく市民に向かって、ブルータスは「私はシーザーを愛していた。しかしシーザーよりもローマを愛していた。シーザーはローマを私しようとした。故に暗殺した」というロジック(論理)を散文で語ります。この演説を聴いた市民は納得し「シーザー暗殺やむなし」の結論に至ります。

ところがシーザーの腹心アントニウスが登場し、演説を始めるや事態は一変します。アントニウスはロジックを用いず、これに代わるにレトリック(弁論術)をもってします。「私はブルータスたちを非難する気は全くない」「シーザーはローマを愛していた」「市民のために遺産まで残していた」「ローマを私しようなどという野心は毛頭なかった」「死体はこれほどまでにむごい状態である」ということを原文ではブランク・ヴァース(無韻詩)という形式で語ります。おまけに話の合間に「しかしブルータスは高潔な男だ」というほめ言葉を何度も挟むわけです。これはブルータスが優勢な状況で下手にブルータス批判をすれば自分の命がさらされるであろう危険を回避するだけでなく、何度も繰り返すことによって「ほめ殺し効果」、聴いている市民たちの心にほめられている対象(ブルータス)に対するある種の反発心を芽生えさせる効果も持っているわけです。ここがこの作品全体の肝となっているといってもいいでしょう。

翻訳は上のリンク先にある中野好夫訳(岩波文庫)のほか小田島雄志訳(白水社)福田恒存訳(新潮文庫)などが代表的です。

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アリストテレス『詩学』 (岩波文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

詩学
この本にはアリストテレスの『詩学』とホラティウスの『詩論』の古典詩論2編が載っています。私のように18世紀の古典主義文学を研究している場合はホラティウスの『詩論』もかなり重要になってくるのですが、一般的な読者はアリストテレスを読んでおけば十分でしょう。ここでアリストテレスは『悲劇』と『叙事詩』について述べています。もう一つの重要なジャンルである『喜劇』に関するアリストテレスの論は現在残っていませんが、この「失われた喜劇論」をベースに中世修道院を舞台として書かれた「衒学的推理小説」が『薔薇の名前』です。この小説とその映画についてはわずかですがブログで言及しています。

『詩学』がそれ以降の西洋文学に与えた影響は計りしれません。有名な「三一致の法則」(時間、場所、行為の一致)や「悲劇の筋立て」(はじめ、なか、おわりの分類)、「人物」よりも「筋」の重視、そして「カタルシス論」など、功罪合わせてその影響は近代文学にまで及んでいます。功の部分は劇一般に対して明確な構成原理、批評原理を与えたこと、さらに「カタルシス」のように論争含みではありながら、近代にまで通用する「用語」を生み出したことです。反対に罪の部分は一部の批評家たちが彼の原理を墨守しすぎて、その結果形式的な批評論が横行し、英文学(とりわけ18世紀)において闊達(かったつ)な詩や劇を生み出す阻害要因となっていたことが考えられます。

これは優れた詩や劇を生み出すための一種のマニュアル本として書かれたものです。従って用例も当時の具体的な作品に基づいているため、注釈を読むのがうるさく感じられる人もいると思います。しかし、その反面この「マニュアル本」が2300年の歴史を生き抜いてきたことに畏れを通り越して恐ろしさを感じませんか?現代の文学作品にも十分通用する普遍性を備えているんですから。いずれにせよ、アリストテレスを読むといって、いきなり『形而上学』などを読み出して挫折する(昔の私のようになる)よりも、この一冊を読んでよそで「アリストテレスを読みました」と吹聴してみてはどうでしょうか?(笑)

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池川明『ママのおなかをえらんできたよ』(リヨン社)

May 26th, 2006 fukao No comments

ママのおなか
実はこの本、じっくりと読んではいないのですが平塚の交流座で知り合った方(副白ゆり長さん)のことが載っているので紹介させてもらいます。この本は産婦人科医の著者が全国の産婦人科医から聞き取り調査を行い、子供たちの「生まれる前の記憶」、いや「おなかに入る前の記憶」を中心に収集したものです。彼女(平塚の知り合い)のお子さん(次男坊)もまた、こうした記憶を持っていたらしく、言葉が話せるようになるとこう言ったそうです。「僕は誰のおなかに入ろうか考えていた。そうしたらパパとママを見つけ、すごく優しそうだったんで、選んできたんだよ」って。

たしかにこうしたことには疑問を持つ人も多いかもしれません。しかし、たとえどんな親や環境に生まれついたとしても、それを「産んでと頼んで産んでもらったんじゃない」と拒絶するのではなく、「私は、願ってこの親と環境のもとに生まれてきたんだ」ととらえることはとても大切なことだと思います。そしてそれは、こう思ったからどうなるとか、それは客観的に証明可能であるというものでは決してなく、自分の決断でそう思い定めてその人生を生きていくという倫理的かつ実践的なものであることはいうまでもありません。

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夏目漱石『こころ』(岩波文庫)

May 26th, 2006 fukao No comments

こころ
下で取り上げた『必読書150』では、漱石の『猫』が取り上げられていますが、漱石の場合どれが取り上げられてもおかしくないほど水準の高い作品がずらっと並んでいます。以前は「何を読んだらいいでしょう?」と訊かれると、私は「漱石と鴎外を読んでおけばいい」と答えていました。あれこれ挙げるのが面倒くさかったというのが理由の大半ですが、まずはクリアーしておかなければならないレベルだからでもあります。

『こころ』は教科書で取り上げられる機会も多く、もうご存じの人は多いとは思いますが簡単にあらすじを説明します。この小説は前半と後半、あるいは上中下に大きく分かれていて、前半で「私」という学生が「先生」に鎌倉で出会い、訳も分からず心惹かれていくところです。しかし、先生には謎が多くそれが解明できぬまま「私」の故郷で父親が危篤になり、帰省して看病をするが、父親が死ぬ。その葬儀で追われているときに、先生が死ぬ。後半では葬儀も放り出して東京に戻ってくる道すがら、先生から私に宛てられた遺書という形で先生の半生が語られています。

先生はひどい叔父の裏切りで親の財産を取られてしまい、人間不信になっているところに下宿の「奥さん」「お嬢さん」と出会い癒される。先生にはKという友人がいた。生来禁欲的で理想主義的な男だったが、彼が経済的に困っていたために先生は同じ下宿を紹介する。こうして「先生」「K」「お嬢さん」の間で三角関係が始まるのだが、ある時Kが先生に「お嬢さんへの恋心」をうち明ける。しかし先生もまたお嬢さんを愛していたことに自ら気づいてしまい、先手を打って求婚し成功する。しかしそれを知ったKは自殺をするわけです。
その後先生と「お嬢さん」は結婚し「お嬢さん」は「奥さん」となるわけですが奥さんにはうち明けられない問題(つまりKの自殺の原因)で先生は煩悶(はんもん)する。そのころ明治天皇が死に話のきっかけから「殉死」という言葉が話題にでる。やがて実際に乃木将軍が殉死したことを知り自殺を決意し遺書として「私」という学生に送ったのがその手紙であった。これがあらすじです。

この「岩波文庫」版のあとがきで「『こころ』は読むたびに違った面が、そしてそれは現在の自身を反映している面が心に残る(大意)」と書かれています。私自身、最初に読んだときは中学生だったこともあり、Kの自殺の場面の凄惨さしか覚えていませんでした。大学生になって読んだときは帰省中の「私」が親と気まずくなる場面が鮮烈に身につまされました。(学生というのは常に「外部」に出ようとする運動を絶え間なく行っているため、親の「内部」とコンフリクトを起こしてしまうわけですね。)最近では、先生がお嬢さんを愛するようになった下りにいろいろなことを感じています。

柄谷は『漱石論集成』のなかで次のように述べています。「先生がお嬢さんを愛するようになったのはKが同居するようになってからです。というより、Kがお嬢さんを愛するようになったからですね(中略)Kが介在することによって、はじめて恋愛が成立したのです。すると、愛を意識した時は、すでにKを犠牲にしなければならない立場にあったのです。たんに三角関係における苦悩なのではありません。「愛」そのものが、三角関係によって形成されたのですから。」ここから柄谷はヘーゲルの欲望論へと話をすすめます。つまり「欲望とは他者の承認(認めてもらうこと、うらやましがられること)への欲望」なのであるから、「人を愛する」という欲望は、実にその人を所有することで他者から認められることへの欲望だということになるのです。こうして恋愛が成立する以上、恋愛とは必然的に「三角関係」を内在していることになります(特定の女性や男性が関係していなくとも「この人と一緒になれば人もうらやむ」という感情を指します)

子供はなぜポケモンが好きなのでしょうか?みんなが好きだからです。

なぜ女子中高生はアイドルに群がるのでしょう?みんなが群がっているからです。

欲望というのは常にそうした形式を取ります。

さらに貧富の格差が広まるということは、他者にうらやましがられる人々とそうなりたいのにそうなれずに怨嗟の念を心にため込む人々とを強烈に分けてしまう社会になるということです。この傾向が確実ならば、それをどうやって人は乗り越えていくのでしょうか?この本を読みながら、そんなことを考えています。

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