新型インフルエンザによその人が罹ったとか罹らなかったとかで大騒ぎしていますが、とりあえずスーザン・ソンタグの『隠喩としての病』を読んでみてはどうでしょう?私が教員になりたてのころ、この原書をテキストに使って学生諸君に辟易された思い出がありますが、唯一私の言いたいことを理解してくれた学生は3年次で司法試験に合格しました。
今回の騒動で、騒動を起こすこと、あるいはその言説に組することは、無意識裡にであれ政治性を帯びているということが分かりやすく書かれている本だと思います。
新型インフルエンザによその人が罹ったとか罹らなかったとかで大騒ぎしていますが、とりあえずスーザン・ソンタグの『隠喩としての病』を読んでみてはどうでしょう?私が教員になりたてのころ、この原書をテキストに使って学生諸君に辟易された思い出がありますが、唯一私の言いたいことを理解してくれた学生は3年次で司法試験に合格しました。
今回の騒動で、騒動を起こすこと、あるいはその言説に組することは、無意識裡にであれ政治性を帯びているということが分かりやすく書かれている本だと思います。
連続幼女誘拐殺人の宮崎勤死刑囚に対して死刑が執行されました。20年になるんですね。
彼が逮捕された頃はちょうど大学生で、場所は八王子、おまけに常人逮捕だったということで強く印象に残っています。夏の暑い盛りだったんですよ。もう、八王子警察の周りはマスコミでごった返し、ヘリも飛んでいたように思います。
やがて過熱する報道の中で「オタク族」という言葉がこの事件を理解するキーワードのように取り上げられ(彼の事件まで「オタク」という用語自体がマイナーで、私自身この事件をきっかけにして知りました)。大人になりきれないオタク族→屈折した性衝動→事件という図式が自明のように語られ、私自身も「そんなとこだろな」と思って済ましていました。
それから7年以上経ったある日、本屋の店先に積んである本書を見つけてたまたま手に取り、そして購入しました。著者の瀧野氏は毎日新聞の記者で、事件の頃はちょうど本町にある八王子支局に勤めていて、それ以来この事件の取材を続けていたそうです。
本書は長年の取材と多岐にわたる分析で簡単に紹介することはできませんが、その核となるのが次の一節です。
捜査本部もそうであったように、検察側の主張も「異常な性欲=動機」説が基本になっている。つまり、成人した女性と付き合うことの出来ない20代の「おたく」の男がビデオ趣味に溺れ、幼女への異常な性衝動に突き動かされたーーというストーリーである。
このストリーは非常に分かりやすかった。天皇がなくなって「昭和」という時代が終わり、時代はバブル前、リクルート事件で自民党の一党支配が動揺し始めた時期。漠然とした社会全体としての欠落感、不安感の中で、理解不能の彼をどうにかこうにか理解するための言葉が「異常性欲」だったのだろう。
警察担当の当時の私もそう聞いて、分かった気になっていた。宮崎に「おたく」というレッテルを貼り、「我々と違う種類の人間」としてしまえば楽だったのかもしれない。
ところが、鑑定書を読みながら私は愕然とした。宮崎の話を丁寧に聞いて書かれた鑑定書は全く雰囲気が違うのである。
以下、鑑定人とのやり取りが記載されています。私自身、著者と同様に「分かった気になっていた」のですが、これを読んでやはり同様に愕然としました。ここには、巷間言われていたような「異常性欲者」の面影もなければ、「偽りの狂気」も感じられません。そもそも「狂気」じみたところなどない、晩生の少年のような陳述だったからです。
私自身には、ここで展開されている「多重人格説」を云々する知識も経験もありませんが、本書は「多重人格説」を強力に推し進めているとか、あるいは死刑推進論者がよく捉え違えするように「故に死刑はいけない」と主張しているものではありません。柄谷行人が言うように、そして著者も服部雄一を援用しながら述べているように、「原因」と「責任」とを区別して論じているわけです。犯行の原因を吟味=批評することと、犯罪の責任を問うということは矛盾なく調和するはずです。
宮崎事件について知るだけでなく、そんなことを考えるヒントにもなる名著です。現在絶版のようですが中古で手に入ります。
私の好きな、そして仕事っ気抜きで気楽に読めるジャンルが探偵小説や法廷ミステリー、そして今日紹介する本のようなミニミステリーです。ジェフリー・アーチャーはロンドン市議会議員やコモンズの議員を最年少で務めた人物ですが、日本では小説家として有名であり、特に阿刀田高や星新一の短編に通じるストーリテラーとしての魅力とピリリと辛い風刺が効いた作風で私の好きな作家の一人です。この『十二枚のだまし絵』も、タイトルから分かるとおり12の短編からなっていて、一つ一つが実に味わいのある小品なわけです。
原題は Twelve Red Herrings. Red herring(燻製ニシン)とは「人の注意を他にそらすもの」という意味があり、転じて推理小説などで読者をミスリードするための仕掛けをさす言葉です。最後の訳者解説によれば12作品それぞれ、どこかに「燻製ニシン」に通じる言葉が出ているということです。ここでは実際に読むときのネタバレにならない程度に、各作品の魅力を紹介したいと思います。
文庫は現在絶版のようですが、ブックオフなど古本屋で安く売っています。
高校生の頃『痴愚神礼賛』を読んで以来ずっと感じていたのですが、エラスムスはどこか不真面目な人であるという印象を持っていました。それは扉絵のところに載せられていたホルバイン作の、口元に皮肉な笑みをたたえたこの肖像画から来る印象だけではなく、もっと根源的な不真面目さです。しかも、あまり不快ではない不真面目さ。たとえば同じ諷刺をしてもスイフトなどは生真面目な感じがする。反語を弄しても安吾のほうがずっとまじめだ。それに比べてエラスムスは、これまた随分と不真面目な印象を受けました。しかし、倫理や世界史の教科書にも乗るエラスムスが田舎の高校生に「不真面目だ」の一言で片付けられるような存在であってはおかしい、そんな思いもあって、彼に対してはなんとなくちぐはぐな印象と漠然とした疑念を持っていました。
この疑念が氷解したのは何かの対談集(おそらく、批評空間だったと思います)で柄谷行人が、「真面目の反対は遊びではない、現実だ」と述べているのを読んだときです。私がこれまで「不真面目」だと思い込んでいたことが、実は「現実的」であったわけです。人は遊ぶとき、たとえばチェスをするときルールを無視してポーンを下がらせるような、不真面目なことはしません。そんなことをしたら遊びそのものが崩壊してしまうからです。つまり遊ぶときほど人はルールに対して真面目であるのです。一方現実的であるということは、真面目ではない。ルールに則った戦争などあったでしょうか。公約に真面目な政治などあるでしょうか。もちろん、条約なり公約を守ろうとする姿勢を権力は示しますが、それらは守られないことのほうが多い。しかし人はそれを「現実的な」選択や状況であったとして赦すわけです。
これを混同したらどうなるか?チェスに現実を持ち込んで、上司だから幹部だからポーンが右下に下がってもOKとしたらチェスそのものが崩壊するように、現実をあまりに真面目なルールやロジックで縛れば同じように悲惨な崩壊を引き起こすことになるわけです。それを防ぐためにこそ真面目=遊びと現実の弁別が必要なのです。マキャベリが言ったのもまさにこの点であって、幻想を打ち砕かれたり現実に倦み疲れたインテリをして「現実の政治なんてこんなものさ」と嘯かせるために『君主論』を書いたわけではないことは容易に理解できます。
エラスムスを読むとき聞こえてきた不真面目というペダルノートは、実際はこの現実主義であったのだと思います。エラスムスの伝記を読むと、教会の分裂と相次ぐ戦火の時代に遭遇し、教会の分裂という事態を何とか回避ようと試みながら、はからずもルター派と反ルター派の両方から批判され、国王たちににもその名声を利用されながら、彼らの逆手を取って自らの平和思想を公にする機会を得ていく、そんなタフで現実的な姿がうかがえるのです。幼い私はそれを、不真面目であると読み間違えていた。そしてこの現実主義と不真面目との混同を払拭すると、そこに見えてくるのはエラスムスの強烈な理想主義、しかも現実に耐えそれを乗り越えようとする希望に満ちた理想主義なのです。
そんな理想主義者のエラスムスは『平和の訴え』でこう述べています。
君主たちは自分のためにではなく、民衆のためにこそ英明であるべきです。また君主は、自分の威厳や幸福、力や栄光を、君主を真に偉大かつ抜群たらしめる事績によって測るだけの名識を備えているべきです・・・・こうして国王は、最良の人民を統治するときに自らを偉大と考え、人民を幸福にしたとき初めて自らを幸福と考えるべきです。また国王は、完全に自由な人間を支配する場合こそ真に高貴なのであり、人民が富裕になって始めて自らも富裕なのであり、諸都市が恒久平和に恵まれ繁栄する時、始めて己も繁栄するものと考えるべきです。(49節)
この一節に、皮肉なエラスムス像を読み込むのも、非現実的な理想主義を読み込むのも自由ですが、それは読む側の気持ちの反映なのであって、エラスムスの問題ではないわけです。現実主義を標榜する政治学者たちがイロニッシュな御用学者となってしまったり、反対にあまりに現実とかけ離れた理屈を整然と展開し(現実という変数を捨象すればたいていのことは整然となりますが)現実を見くだした姿勢をとるのは、どちらも理想と現実という、永遠に和解することのない二重性の重荷に耐え切れなくなって、前者は幻滅し後者は逃避しているのだと私は思います。
国家間、民族間の対立と反目についても簡潔な筆致で、
イングランド人はフランス人を敵視していますが、その理由はといえば、それはただフランス人であるということのほかは何もないのです。イングランド人はスコットランド人に対し、ただスコットランド人であるというだけのことで敵意をいだいているのです。同じように、ドイツ人はフランス人とそりが合わず、スペイン人はこれまたドイツ人ともフランス人とも意見が合いません・・・・名前のような取るにたりない事がらが、かずかずの自然の結びつきやかずかずのキリストの絆より一そう強い力をふるうとは、どういうことでしょう?(59節)
と、その愚かで無根拠な本質を暴きます。
そして、平和への方途を民衆の自覚へと向けていきます。
キリスト教徒の名に誇りをもつすべての人びとよ、心を一つに合わせて戦争に反対の狼煙をあげてください。民衆の協力が専制的な権力に対してどこまで抵抗する力があるかを示してください。この目的のために各人はそのすべての知恵を持ち寄っていただきたいのです。(74節)
大多数の一般民衆は、戦争を憎み、平和を悲願しています。ただ、民衆の不幸の上に呪われた栄耀栄華を貪るほんの僅かな連中だけが戦争を望んでいるにすぎません。こういう、一握りの邪悪なご連中のほうが、善良な全体の意志よりも優位を占めてしまうということが、果たして正当なものかどうか、皆さん自身でとくと判断していただきたいもの・・・・戦争は戦争を生み、復讐は復讐を招き寄せます。ところが、好意は好意を生み、善行は善行を招くものなのです。(76節)
中島敦を知ったのは、他の人と全く同じように高校の国語の教科書で「山月記」を読んだ時でした。最初は漢語ばかりで教科書の下段にあった注釈もうるさく非常に取っつきづらそうな印象で、むしろ心に残ったのは章末に載っている中島本人の写真、牛乳瓶の底のような眼鏡が特徴のあの写真でした。しかし、声に出して何度か読んでみると非常に調子がいい。「隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」とか「厚かましいお願いだが、、彼らの孤弱を憐れんで、今後とも道塗(どうと)に飢凍(きとう)することのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖(おんこう)、これに過ぎたるは莫(な)い」なんていう一節を読むと、その前進的なリズムに魅せられるわけです。
この文庫は中島の作品の中から「山月記」「名人伝」「弟子」「李陵」の4編を選び出した短編集で手軽な一冊です。「山月記」は唐代の李徴が虎になってしまう一種の変身譚が、上にも引用したように漢文学的なリズムと筆致で描かれています。自らが虎に変身してしまうまでの告白には男の生き方について深く考えさせられる思想が、時に漢語、時に撞着語法、時に対句を用いながら説得力をもって語られます。人間であった頃の自分を振り返り、李徴は「己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々とし瓦に伍することも出来なかった」と語ります。この「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」というのは一見オクシモロン(撞着語法)に見えますが、良く考えれば自尊心とは時に臆病さが反転したものであり、羞恥心ゆえに尊大に振る舞う人が多いことも理解できます。そしてこの一編の核心的な一節に至ります。
人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。
次の「名人伝」は「道」というものの深さを描いたと言えばそうなのかも知れませんし、その背骨にはいわゆる老荘思想があるのかも知れませんが、用いられているイメジからするととても滑稽な話としても読める一編。主人公紀昌は弓の名人になりたくて、飛衛という名人を訪ねると、瞬きをしない訓練を命じられる。すると刻苦勉励してついには目に蜘蛛の巣が張られるまでになる。今度はものを見る訓練を命じられると蚤を飽かず眺め続け、ついには馬ほどにも見えるようになる。こうなると、邪魔なのは師匠飛衛の存在。これを除こうと弓の勝負を持ちかければ、飛衛も我が身が危ないと分かり、弟子の気を他へ転じさせるため、さらなる弓の名人甘蝿老人を紹介し難を避ける。紀昌はこの老師を訪ね、ついには弓の名人中の名人、芸道の深淵を身につけるという話です。なんとなく滑稽感が漂うものの、そこにわずかな皮肉や諷刺もない飄々とした物語が魅力的です。
「弟子」は孔子とその弟子、子路を描いた短編で、一続きの物語というよりも、断片的なエピソードで綴られています。子路は孔子の弟子の中でも特に変わり者だがまっすぐな男で、その心の奥底には単純だけれど深い一つの疑問が横たわっているのです。それはなぜ「邪が栄えて正が虐げられるのか」という疑問です。こういう真っ直ぐな男ですから、師弟の道もまた純粋なもので、「後年の孔子の長い放浪の艱苦を通じて、子路程欣然として従った者は無い。それは、孔子の弟子たることによって仕官の途を求めようとするのでもなく、また滑稽なことに、師の傍に在って己の才徳を磨こうとするのでさえもなかった。死に至るまで変わらなかった・極端に求むるところの無い・純粋な敬愛の情だけが、この男を師の傍に引き留めたのである」と述べられています。この人物像を読むと、私は司馬遼太郎が『項羽と劉邦』の中で描いた平国候候公を思い起こします。彼もまた「食客」に徹して一種の客哲学みたいなものを信奉していた変わり種でした。こうした純粋さは、滅多に見られない徳であるため高く評価されますが、同時に純粋性というものの持つ融通の利かなさが悲劇をもたらします。子路も候公も少し悲しい末路を迎えることになります。いずれにしても「弟子」は「弟子のあり方」について深く考えさせられる作品です。
最後の「李陵」は、武帝の時代に対匈奴最前線に送られ、善戦するも捕らえられてしまい、讒言によって妻子眷属を刑戮された前漢の将軍李陵と、彼を満座の中で弁護したために宮刑に処されるも、その苦難をバネに『史記』を書き上げた司馬遷の物語です。この短編もまた非常に印象深い作品です。李陵が匈奴に下ったという噂が流れ、武帝が激怒するや、その顔色を見た群臣が口々に李陵を罵ります。しかし「今口を極めて李陵を讒誣(ざんぶ)しているのは、数ヶ月前李陵が都を辞する時に盃をあげて、その行を壮んにした連中で」あったし、「漠北からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えた時、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃えたのも又同じ連中で」あったのです。このことに疑問と憤りとを感じた司馬遷は下問を受け、はっきりと李陵を弁護し変節の群臣達を「全躯保妻子の臣(躯(からだ)を全うし妻子を保つの臣)」と罵倒し、このため宮刑(男性の生殖器官を切り取る刑罰)を受けることになります。現代にも、そして私の周りにもこうした群臣のような連中はたまにいます。それまで「立派な人だ、凄い人だ」と褒めちぎっていたにもかかわらず、何かの不運に巻き込まれて、たとえば「哭いて馬謖を斬る」ような目に遭うや掌を返したように、悪口を言い始める連中です。こうした「全躯保妻子の臣」はいつの時代にもいると共に、自ら「私は偽物ですよ、皆さん」と語っているに過ぎないのす。決して信用できない人間であることを自ら告白しているのです。こういう人間には決してなりたくありませんよね。司馬遷への迫害とそれを克服して『史記』を完成させるドラマについては『語らい』の「迫害と人生」でも語られているので、ご存じの方も多いでしょう。
漢語も多いのでなかなか骨の折れる作品ですが、短編という体裁と物語という形式、そして思想に深みがあるので、案外に読みやすくはまりやすい作品集だと思います。また岩波文庫の『山月記・李陵 他九篇』のほうはもっと収録作品が多いので(上の4編に加えて7編)こちらもお薦めです。ぜひ読んで下さい。ところで、冒頭に述べた中島の写真、私はいつも滝廉太郎とイメージがかぶってしまい、いまだに混同し続けているのですが(笑)。
現代のように様々な娯楽や情報がなかった時代に書かれた文学は、時に背表紙を見ただけでたじろいでしまうような厚さのものがあります。トルストイやドストエフスキーなどロシア文学、今回紹介するディケンズやサッカレーのようなビクトリア朝文学などにその傾向が強いと思います。しかし、厚さと読みやすさというのは当然のことながら無関係で、フランス系実存主義文学などでページ数が少ないからと安心して読み始めると、難解な言い回しの連続で、読み終えるのに3日ぐらいかかることがあります。かと思うと反対に、勇気を出して長編小説を読み始めたら、内容の面白さやテンポのよさに惹きつけられて一晩で読み終えてしまい、翌日寝不足でつかいものにならなくなることだってあります(笑)。この『我らが共通の友』も一晩がかりで読み終えて大きな感動を得た小説です。
実はこの作品、もともとは原書を訳者の間先生のゼミで読んだのですが、原書であるということや1年で読み終えるように抜粋を読んでいったこと、それと専門の英詩ではなく散文であるということでかなり手を抜いて下読みしていたためあまり筋を理解しないまま1年を終えてしまいました。この翻訳が出版されたとき間先生からいただいたのをきっかけに、改めて読み直し大きな感動を持って読み終えました。
本書のテーマは、ずばり「金」と「欲」です。最近の日本でも資本制を「市場経済」などと言い換えて中性化し、その便利な言葉を旗印にずいぶん下品ではしたない意見が平然と語られていますが、この小説もまさにそのようなはしたない時代のロンドンを舞台としています。ゴミ屋で産を成した父親の死にともなってアメリカから帰国したジョン・ハーマンが何者かに襲われ、テムズ川で死体となって発見されます。行き場を失った遺産(ゴミの山)は使用人であったボフィン夫妻のものとなります。そこへロークスミスと名乗る男がやってきて秘書として雇われますが、やがてベラという女性(彼女は本来、遺言によりハーマン氏と結婚することになっていた)と恋に落ちます。
一方、川底浚いの娘リジーと弁護士ユージン、小学校教師のヘッドストーンとの三角関係がそれと平行して語られます。最後に、あるものは死を迎え、またあるものは悪事を暴かれ、あるいはゴミの山に放り込まれ、またあるものは真の愛を手にしてクライマックスを迎えます。もっと細かく書いてもいいのですが、この小説はミステリーの要素も含まれているため、あまり詳しく書いてしまうとネタばれになるので曖昧に紹介しておきます。
私はディケンズをすべて読破したわけではないので、これが一番であるとかどれが一番であると言うことは出来ません。しかし、これが社会風刺や道徳的良心、心理描写や人物描写にすぐれた作品であることは疑いありません。その上にミステリーの要素まで含まれているので、はまってしまえば一日や二日で読んでしまうでしょう。夏休みの読書として薦められる一冊です。
保育園の頃から落ち着きなく出歩き、小学校の通知票の「生活態度」欄(こんな内面に踏み込むな、、と子供の頃から思っていました)では6年間「落ち着き」が最低評価。目に付くもの、興味が沸いたものに何でも飛びつき、高校の時に知った "Jack of all trades, and master of none"(訳す気にもなれない)は自分のことだと悟って開き直って生きてきた私が運営するサイトだから仕方がないのかも知れないけれど、まぁショックな出来事がありました(笑)。ある学生さんからの質問:「先生はジャズミュージシャンでアメリカ生活をしていたから、英語を教えているんですか?」
・・・
まぁ、たしかにこのサイトも英語や文学よりも、ジャズの方に力を入れているきらいがあるから仕方ないかも知れないけれど誤解ですね。私は英文学者です。それも18世紀の古典主義詩人の研究。ジャズなんか聴いている暇があったらハンデルやモーツアルトのシンメトリカルな構成でも聴いていればいいのかも知れませんが、とにかく18世紀プロパーです。そんな意味で、今日は英詩のアンソロジーを紹介しておきます(笑)。
英詩のアンソロジーというとパルグレイヴのGolden Treasury が有名ですが、本書もそれに負けないほどすぐれた詩集です。手に取れば分かることですが、ページの左側に原文が、右側に対訳の日本語が載っています。英語が全く分からないなら仕方ありませんが、不得意だという程度の人なら対比して読めるようになっています。また脚注もうるさくない程度に付いているので詩の理解を助けてくれると思います。
詩の構成は、比喩やイメジのような意味的要素と、韻(rhyme)やリズム(rhythm)のような韻律をはじめとして用いられている語音が生み出す楽音的な要素が結合して成立するので、いつまでも訳で詩を読んでいたのでは正しい理解にいたらないと思います。この詩集は19世紀のロマン主義一辺倒ではなく、イギリス・ルネサンスからシェイクスピア、ミルトンを経て、ドライデン、ポウプ、グレイ達も取り上げられ、一方で現代の詩人にもかなりのページを割いているのでバランスがよいと思います。本詩集を読んで気に入った詩人を見つけたら、同じく岩波から「イギリス詩人選シリーズ」という個々の詩人を取り上げたアンソロジーが出ていますからそちらをご覧になるか、私に直接質問して下さい。お答えできる範囲でお答えしたいと思います。
The Universe of English (下記参照)の冒頭は絵画論で、テーマは16-7世紀のオランダ絵画でした。その中でももっとも有名なのがこのデルフトの画家ヨハネス・フェルメールです。本書は2000年(日蘭交流400周年)を記念して開かれた「フェルメール展」の図録です。大判のわりに安いのでネットで購入しました。
フェルメールが活躍したのは17世紀のオランダ。デカルトをして砂漠と言わしめた資本制の発祥地です。したがってフェルメールの作品に描かれているのは、当時勃興しつつあった資本制を背景とした「家庭」の姿と、プロテスタント的な倫理観を伺わせるような、禁欲的で静謐な世界です(興味深いことに、フェルメール自身は最初プロテスタントでしたが、妻との結婚を機にカトリックに改宗したといわれています)。
日本では印象派の絵画に人気が集まっているせいか、絵は「鑑賞するもの」「見て感じるもの」という側面が重視されますが、西洋ではルネサンス絵画はもとより、オランダ絵画や印象派においてすら「読み解くもの」「読んで理解するもの」という側面が同じように重視されています。それは図象学的な興味だけでなく、歴史的な引喩や時には数秘学的なメタフォーすらも読解の対象となります。本書ではフェルメールの全作品と、同時代の画家達の作品を何点か載せ、それを様々な角度から読み解いています(なぜかフェルメール以外の作品の方が大きく掲載されているんですよね・・・)。もしこの本をみてフェルメールに興味が沸いたら次に紹介する本も推薦できます。
『フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡』(NHKブックス)は小林頼子氏が書いた本で、吉田秀和賞を受賞したすぐれた美術評論です。フェルメールの生涯から説きおこし、構図の工夫や遠近法の推移と発展といったザッハリヒな評論を経て、風俗画を中心に歴史と文化、社会の問題に言及しています。そして死後における受容の変遷と真贋問題を最後に取り上げ、まさに「過不足のない」フェルメール論となっています。よく考えると、むしろ最初にこちらを読んだ方がいいかもしれませんね。美術のみならず、西洋社会史やキリスト教、あるいは文学に興味のある人も目を通すべき一冊だと思います。
先日警察庁から昨年一年間の児童虐待死が報告されましたが、49件ということでした。この数が多いか少ないか私には分かりませんが、少なくとも死に到らない虐待の数は相当なものに上ると思います。
本書はもう30年も前の昭和50年代にまとめられた、施設児童による作文集です。親の虐待や育児放棄などによって施設に入所した子供達の生の声が聞こえてくるような一冊です。時代の違いがあって「昔は経済的な貧困による虐待が多かったが、今は豊かな時代なのに精神的な貧困から虐待が発生する」という言い方がよくされますが、それはちょっと違うのではないかと思います。現実的な貧困と「貧困感」は違います。昭和50年代といえばまだ日本は総じて貧乏でした。したがって貧乏であってもそれほど「貧困感」は感じなかったように思います。うちも貧乏でしたし。一方、現在は小金持ちと貧乏人とに分裂した格差社会になりつつあります。こうなると、人間の貧困感というのは増大するわけです。なぜなら、何度でも言うように「欲望とは他者の欲望」なのですから。
一般に虐待は遺伝すると言われます。虐待を受けて育った子供は自分の子に虐待をすると。わたしはこういう言い方もどうかなと思います。心の問題は関数の問題と違って「Aすれば必ずBとなる」わけではないのですから。むしろBという結果からAという原因が事後的に導かれるに過ぎない。これを構造論的因果論といいます。しかし、テレビによく出てくる心理学者などはこうしたことをすっ飛ばして、「こうすればこうなる」風のことを吹聴しています。これではもはや占いや予言のたぐいであって、心理学者も細木数子も大した違いはなくなります。さらに、「心は影響を受ける」という側面も見逃せません。「虐待されて育った子供は虐待する」と言われ、それを気に病んでノイローゼになって虐待に走ってしまうということだってあるのではないでしょうか?
と、本書にはあまり関係のないことを語ってしまいましたが、これが書かれて編纂された頃は、まだ今のように「アダルト・チルドレン」という概念などが作られていなかった時期のものです。タイトルも「泣くものか」です。今なら「泣いてもいいんだよ(人間だもの)」風のタイトルにされてしまうでしょう。しかしながら、この古い作文集、なかなかに手強い内容で、ここで語られていることは普遍的な問題であるような気がします。
椎名誠を最初に読んだのは、大学4年生の時、親しかった後輩から薦められたのがきっかけでした。たしか『インドでわしも考えた』だったと思います。なぜならば、当時「印度天竺文化研究会」(通称「印天文」)を作ろうなどと騒いでいて、ならば一冊インド物を読もうという話になったからです。しかし、読むべき本がガンジーでもなければ堀田善衛でもないところからも分かるとおり、単なる冗談でした。たぶん動機も「インドは美人が多い」とかなんとか、そういう不純なものだったはずです。
こうした不純な動機で作ろうとした印天文は単なる空騒ぎに終わったのですが、私はここ(『インドでわしも考えた』)にちりばめられている言葉に魅せられてしまい、ズルズルと椎名誠にはまっていくことになりました。今回取り上げる『哀愁の町』はエッセイ風味の小説で、詩と真実が上手いぐあいにミックスされている秀作です。その頃ちょうど、滝山寮時代の馬鹿馬鹿しくも面白い出来事を綴ろうと考えていた私は、「なんだ、こんな感じで書けば簡単じゃないか!」と早とちりして早速筆を執ったのですが、まったく読むと書くとでは大違い、全然「こんな感じ」には書けないで苦労した思い出があります。
最近ではあまり見かけなくなったボロいアパート「克美荘」を舞台に、椎名をはじめ沢野ひとしや木村晋介ら、のちに怪しい探検隊として有名になる「東ケト会」メンバーによる若き日の共同生活がヒューモラスに、そしてなんとはなしの懐かしさや哀しさを含んで描かれています。だから哀愁なんでしょう。この読後感、何かに似ていると思っていましたが、映画『スタンド・バイ・ミー』なんですね。スタンド・バイ・ミーは少年たちが主人公でしたが、こちらは思春期をそろそろ越えた男達。でもやっていることはなんか似通っているんですよね、ほとんど進歩がないのかもしれません。仲間さえいれば、若さにまかせて何でもできる、そんな青春のおはなしです。