words, words, words

お腹のことに気を配れない人は、何に対しても気を配れない

Some people have a foolish way of not minding, or pretending not to mind, what they eat. For my part, I mind my belly very studiously, and very carefully; for I look upon it, that he who does not mind his belly, will hardly mind anything else. by Samuel Johnson (中には愚かにも自分の食べるものに対してなんら気を配らない、あるいは気を配らないふりをすることを身につけているものがいる。私といえば、自分のお腹には熱心に、また注意深く気を配っている。というのも、私の見るところ、お腹のことに気を配れない人は、何に対しても気を配れないからだ)


むかし、八日町にある酒屋のシャッターに「お腹のことを考えない人は、頭のことも考えない サミュエル・ジョンソン」という格言が書かれていた。その出典が上の一節。微妙な違いはあるが、大意は同じであろう。「気にしない」という訳だと日本語の「気にする」の持つネガティヴィティーが前面に出てしっくり来ないので、「気を配る」と訳してみた。

地震が起こってこのかた、私たちは情報の洪水の中にいる。情報の津波といってもいいだろう。さらにその情報自体が、「危険だ」「いや安全だ」「ヤッパリ危険だった」という激しい振幅の中にあり、かなり疲弊している人も多い。そうした中にあってわたしが一番気になった情報は、実をいうと「自衛隊が赤飯を食べている」と「原発作業員の食事がカロリーメイトでひどい」というものであった。赤飯はコメとマメが同時に取れるというスグレモノらしいが、それでも「もっといいもの食べさせたれよ」と思うし、まして原発作業員のカロリーメイトにいたっては何をかいわんやである。

警察消防を含め両者とも、もっとも過酷な仕事に従事している人たちである。英雄に祭り上げる暇があったら、もっと美味しくて暖かくて栄養のあるものを食べさせるべきなのだ。人は(というか生き物は)食を基本として、その上に文化なり、思想なり、科学なりを築き上げてきた。食は生きることの土台である、とたぶん山岡士郎も『美味しんぼ』の何巻かで言っていることだろう。「欲しがりません勝つまでは」の思想は時代錯誤どころかいつの時代にあっても錯誤なのである。

「被災者の気持ち」という人がいるけれど、そういう人に限って自分はぬくぬくとした環境にあって、一番困っている人を盾にして自分のフラストレーションをリリースしている人だったりするのは、内田樹先生の指摘するとおり。→未曾有の災害の時に  そんな人たちの声に耳を貸す必要などない。復興支援の人たちや協力会社からの原発作業員がまともなものを食べて力いっぱい働いている姿を非難する被災地の人などいないはずだ。

なにも毎食フルコースを食べてもらおうといっているのではない。復興も原発も彼らの双肩にかかっている、彼らの判断力にこそ、日本の未来がかかっているのだから、まずは彼らのお腹を私たちで支えようではないか。

意味という病 再考

人生は歩く影法師、哀れな役者だ、出番が来れば
舞台ではしゃぎ跳ね回るが、出番が終われば誰も気にしない、
それは道化によって語られた物語、怒りと響きに満ちていても、
意味などない(『マクベス』)

現都知事が地震を「天罰」と発言したり、それを引っ込めたり、まだ未練があるらしく再び釈明したりしているが、この発言が問題なのは「不謹慎」だからではない。問題なのは彼が地震に意味を付与したがっているからだ。

人が出来事に対して意味を付与しながらでないと生きていけないのは、そうすることによって、その出来事を各自が責任と引きうけを持って乗り越えたり、方向転換をしたり、ときに上手く退避するためである。カントのいう「統制的」な意味の使用である。それは他人から勝手に定義づけられるものではないし、まして権力者が力任せに定義していいものでもない。

スーザン・ソンターグは自身がガンに罹ったとき、ガンを取り巻く強烈なメタフォーと意味の過剰について考察しているが、病すらそこに先験的な意味などないという健全性の回復を訴えている。なぜ意味がそれほど危険なのか?それは病や天災に対峙するためのエネルギーを、意味のほうに吸い取られてしまうからである。

人は病にに罹ったり天災に遭遇した時、どうしても形而上的に意味を問うてしまう。「なぜ自分が?」。しかし、その答を見出せたとしてもガンは治らないし、状況は好転しない。にもかかわらず、やはり意味を問うてしまうのが人間である。しかし、そこから先は宗教の分野であって政治の分野には属していない。

私は思う。病であれ天災であれ、そこに意味などない。あるとすれば、それは自分自身が作り出した意味であり、それは自分自身を実践的に解放し向上させるものでなければ、「意味がない」。

スーザン・ソンターグ『病とそのメタフォー』
柄谷行人『意味という病』

感銘を受けた言葉

TwitterでもかなりRTされて広まっているが、深く感銘を受けた言葉。

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

 諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。
 とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。
 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。
 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。
 諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。
 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。
 大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。
 多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。
 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。
 君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。
 学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。
 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。
 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
 「今日ひとりで海を見てきたよ。」
 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。
 悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。
 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。
 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
 海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。
 真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。
 鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。
 教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。
 「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32

 一言付言する。
 歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。
 泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。
 今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。
 被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。
 巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。
 本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)
 被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。
 梅花春雨に涙す2011年弥生15日。

立教新座中学・高等学校

校長 渡辺憲司

http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

R.I.P. Michael Jackson

マイケル・ジャクソンが亡くなって、少しさびしい気持ちのG坂です。最近は特に好んで聞いていたわけではないのですが、亡くなってみるとその喪失感の大きさに気づかされました。

ちょうど『スリラー』のリリースが青春時代とかぶっているわりに、その頃はそれほど熱心に聴くわけではありませんでした。しかしマイルスがアルバム You're under Arrestでマイケルの "Human Nature"を取り上げたことで、がぜん興味が出てきてベスト版程度は聴くようになりました。ただ、ダンスに詳しくない私としては、彼の魅力を半分も楽しめたか自信がありません。

この人の一方の魅力は"We Are the World"と、その連作として聴かれるべき"Heal the World"といった「平和モノ」で、彼特有の優しいヴォイスとあいまって非常に説得力があります。こうした活動が当局に睨まれる原因となり、国策ともいえる規模のネガティブキャンペーンでイメージダウンを図られたことは記憶に新しいです。

それでもやはりこれらの曲は聴き継がれ、歌い継がれていくに違いありません。

続く世代について思いをめぐらし、子供たち、そしてその子供たちのためによりよい世界にしたいと声を上げよう、子供たちがよりよい世界だと知り、自分たちもさらにまたよい世界を創れると思えるように。"Heal the World"より

TABOO SONGS~封印歌謡大全

どこかのブログの記事で知って、ずっと楽しみにしていたTBSラジオの「TABOO SONGS?封印歌謡大全」(7/22 19:00-20:59)を聴きました。

パーソナリティーはラップの宇多丸と『封印歌謡大全』の著者石橋春海氏。

取り上げられた曲と封印された経緯ですが、取りこぼしがあるかもしれませんが、以下のとおり。

  • 「イムジン河」聞き逃しました
  • 「別れのブルース」淡谷のり子 戦時中でムードがいけない
  • 「忘れちゃいやよ」渡辺ハマコ 戦時中で色気過剰
  • 「檻の中の野郎たち」守屋浩  主婦連がクレーム。元歌が練馬鑑別所の「練鑑ブルース」ということで不良を助長する、軍歌のメロディー(誤解だったようです)
  • 「関東流れ歌」渡哲也 任侠の歌
  • 「びっこの子犬」加山雄三 「びっこ」という言葉
  • 「手紙」岡林信康 部落差別を扱っているから
  • 「金太の大冒険」つボイノリオ ・・・
  • 「シンボル・ロック」梅宮辰夫 羽賀よりも稀代の悪だから(笑)
  • 「ブラック・マジック・オールド・マン」海援隊 関税の輸入ポルノ塗りつぶし係という職業を差別しているから
  • 「丸の内ストーリー」畑中葉子&ビートたけし 冒頭の畑中とたけしのやり取りが過激すぎる
  • 「放送禁止歌」山平和彦 タイトルが挑戦的だから
  • 「銃を取れ」頭脳警察 暴力革命賛美だから
  • 「さすらい」克美しげる 歌手が殺人者だから
  • 「かえしておくれ今すぐに」 フランク永井 「吉展ちゃん事件」の犯人に宛てた歌なので、今では放送されない
  • 「不如帰」村上幸子 「血を吐く」という歌詞が昭和天皇の病状を連想させ自粛
  • 「サマータイム・ブルース」RCサクセション 原発と地震の関係をうたっているから

話の中には「要注意歌謡曲取扱内規」というものの存在がでてきたり、「禁止はしていない」と言い張るNHK職員の話や、「不如帰」の時のように「誰かが命じたわけでもないのに、なんとなく自主規制の輪が広がっていった」という不気味で中心不在の日本的な状況も浮かび上がってきました。

しかし、コマーシャル明けなどのジャンクション部分でかかるモダン・ジャズ・ビッグバンドの曲がとてもよくて、そちらに耳がいっていたのも事実です。プロテストソングや社会的な問題提起の歌でも「もう少し洗練された強さがあればなぁ」と感じることがたまにありますね。

ともあれ勉強になる番組でした。

Too hot the eye of heaven shines

Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate.
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade
Nor lose possession of that fair thou ow'st;
Nor shall Death brag thou wander'st in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st:
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.
(William Shakespeare: Sonnet 18)

(君と夏の一日を比べてみようか?
君のほうがもっと美しく、もっと温和だ。
すさぶ風が五月の柔らかなつぼみを揺らすことはある、
また夏の貸借期間はあまりにも短い日にちしかない。
時に天をめぐる太陽という目があまりに熱く輝く時もあれば、
その金色の顔色が雲にさえぎられることも多い。
そしてまた、美しきものもいつかはその美しさから滑り落ち
たまたま、あるいは自然の変化によって崩れてゆくものだ。
でも、君の永遠なる夏が翳りゆくことはないし、
今君が持っている美しさの所有権を失うこともない。
あるいはまた、死の谷の影を君が歩むと、死が威張ることもない、
この永遠の詩行の中で時のある限り永遠に茂るのだから。
人が息をし、人の目が見える限り、
この詩は生きつづけ、君に命を与える。)

シェイクスピアの154篇からなる『ソネット』のうちでももっとも有名なものの一つが、この18番ソネット"Shall I compare thee . . ."です。例えば映画Shakespeare in Loveでは主人公シェークスピアがヒロインに送る詩がこの一篇であり、Darling Buds of Mayというタイトルのテレビシリーズも撮られています。上のタイトルに挙げた一節は、私が「暑過ぎ!(too hot)」というと、すぐさま口をついてでる口癖なので取り上げました。

しかし、この詩は名作です。永続性と脆弱性、若さと老化、美と醜、などといったアンチノミーが整然と、いや雑然と併記されています、"ars longa, vita brevis"ということわざの誤訳(本来は、「技能を修得するには長い月日が必要なわりに、人生は短い」=「少年老い易く学成りがたし」なのですが、「芸術は長い、それに比べて人生は短い」と芸術の優越性のように解釈されることが多いのです)を地で行ったような、芸術の優越性を物語っているようにも響きます。

しかし違うと思うんですね。これは、シェークスピアの宣言であると思うわけです。だからこそ、11行目でバイブルの『詩篇』に抗うようなことを(ここは『詩篇』の23章「たとえ死の谷を歩むとも、私は怖れません」を意識した一節です)かいていると思うのです。『ハムレット』でも「自然に向かって鏡を掲げる」という下りで、彼は自分の芸術家宣言(本来は芸術意識の登場以前なので、劇作家、詩人宣言です)をしていますが、これと呼応します。

最後の対句(couplet)など、生きているうちに一度は書いてみたいものです。「人が息をし、人の目が見える限り、この詩は生きつづける」・・・かっこよすぎます。それにしても、この頃のソネットに多用される「法学部的ターム」、シェークスピアはこの頃訴訟でも抱えていたのでしょうかね?

良心の立入禁止区域

原爆投下60年ということで、昨日(8/7)NHKで「原爆投下に関わった側の言い分」を特集する番組をやっていました。エノラ・ゲイの乗組員や司令官らのうち生存している人たちに対するインタビューを中心として構成されていましたが、彼らはおしなべて「原爆投下は戦争を早期終結させるために必要であった」ときわめて強い口調で語っていました。
それを観ながら、彼らの自己中心的な主張に憤慨すると同時に、他方である種の同情を禁じ得ませんでした。なぜなら、彼らは皆沈痛な面もちで語っていたからです。
人は自分がもっとも確信を持てない場所、もっとも痛い場所を指摘されるときに、もっとも強い反応を示すものです。彼らが強弁すればするほど、それは彼らの後悔の表徴でありそこを斟酌する必要があると思いました。過去を責め続けて「人道に対する罪を犯しました」という懺悔を求め続けてもそれはありえないことです。人は常に「自分は合理的に判断して今ここにいる」と思いながら、散乱する現実をなんとか堪え忍んでいるものだから。むしろ彼ら自身が感じている結果の悲惨さを未来に向けて語ってもらうべき時なのではないのかと感じました。

こうした人々の中で、イーザリーという気象官が、戦後原爆投下の非をならし、却って精神病院に強制入院させられる事情も描かれていました。このイーザリーとユダヤ人哲学者アンダースがかわした往復書簡『良心の立入禁止区域』が同番組で紹介されました。この中でとくに感銘を受けたのは「君が精神病院に入れられているのは、君が狂っているからではなく、君の周りが狂っているからだ」というアンダースの言葉でした。チャップリンの『独裁者』の有名なシーン、逆さに飛ぶ飛行機を取り上げて、丸山眞男は『現代政治の思想と行動』の中で大意次のようなことを述べています。「ああやって逆さまになって飛んでいて、且つそのことに気づかないと、逆さまの世界が正しいと思えてきてしまう。」
チャップリン演じる床屋はユダヤ人女性が侮辱されているのを見過ごせず、突撃隊に立ち向かいますが、周りの人は最初彼をおかしい人だと思います。しかし、おかしいのは女性を陵辱して良しとする社会であって、床屋ではないはずなのですが、社会の価値観が転倒してしまうと、一緒に転んでいる側が正しく、まっすぐ立っている側がおかしいように観られてしまうということが丸山によって指摘されています。『独裁者』をこのような観点で観たことがなかったので、丸山の指摘を読んだときは非常に感銘を受けました。と同時に、アンダースの指摘もまた丸山の指摘と機を一にしていることにもテレビを観ながら感動しました。

Signifying nothing

To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow; a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
---Macbeth (V, v, 19)
(明日、また明日、また明日が
のろのろとした足取りで一日一日を這い進み
歴史として記録された時の最後の一音節に辿り着く。
そして昨日という日は全て、死に向かう馬鹿者どもを
照らしてきたのだ。消してしまえ、つかの間の灯火など!
人生は歩く影法師、哀れな役者にすぎない。
出番がくれば舞台で騒ぎ、はしゃいでいても、
出番が終われば聴かれることなどない。人生は
白痴の話す物語だ。喧噪と怒りに満ちあふれてはいるが
意味などない。)

夫人の死(自殺)を知ったマクベスは、「あいつもいつかは死ななければならなかった・・・」と語った後、この独白を始める。もしこの世界でもっとも有名な独白を無味乾燥にパラフレーズするならば「人生は死へ向かってとぼとぼ歩くもの。人は哀れな役者、生きているうちは大騒ぎしているが死ねば終わり、意味などない」ということになるだろうか。以前に引用した『お気に召すまま』の「この世界はすべてこれ1つの舞台」ではじまるジェイクイズの独白と比べると、用いている比喩の枠組みは似ているのに、醸し出されるイメジは全く異なっていることに驚く。『お気に召すまま』では"one man in his time plays many parts"(そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる)と能動的に演じる役者であった人が、『マクベス』では歩く影法師、哀れな役者にまで落とされている。影法師は本体が動くことによって動くが、これは自ら動いているのではない。本体によって動かされているのである。だからマクベスのいう「哀れな役者」とは自ら演じているのではなく、実は演じさせられている役者のことだ。これを読んだ人は「人生は意味などない」と知って暗い気持ちになったり絶望的な気持ちになるだろうか?私はむしろ元気になる。なぜなら意味などないからこそ、倫理と実践が喚起されるからである。
こんな駄文でも熱心に目を通してくれている学生さんがいて、先日その人と話しているときにちょっと意見がすれ違っているのに気づいた。よくよく話してみると「倫理」という語の意味をお互いに違って使っていたことが分かった。彼女が「倫理=道徳的なもの」ととらえているのに対して、私は「倫理=非道徳的なもの」という意味で使っていたからだ。倫理とはたしかに道徳と一緒にして使われたりするので混同されがちだが、実は道徳とは全く異なるものである。道徳とは共同体によって認められている価値の体系であって、「そうすることがよい」とされている事柄の系である。したがって「道徳的にふるまう」とは、他人によって決められた価値体系に身をすり寄せることを指すのだ。一方、倫理とは「そうすることがよいかどうかは分からないが、私はこれをする」という決断を指す。
意味がある=価値があると分かっていることをするのに何も決断はいらない。しかし、意味がないこと、あるいは弁証論的に意味があると証明し得ないもの、つまり形而上学的な領域に属する問題に立ち向かうとき、人は決断を迫られる。マクベスはここで悲劇的なトーンを湛えつつもこのことを指しているのである。意味などない、ゆえにあらゆる意味を生み出しうる。

nisi navi plena

numquam enim nisi navi plena tollo vectorem
(私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから)
Macrobius, Saturnalia, II, 5, 9-10.

ラテン語である。私がこのテクストに出会ったのはちょうど大学院の2年目で、「古典語」の講座が人文学科の学部生向けに開設されたので担当教員にお願いして参加したときのことであった。
これほど悩んだ一節はなかった(英語も含めて)。辞書を引いて単語の意味は理解できた。文法書を丹念に読んで文のシンタックス(統語)も大丈夫だと思った。つまり、上の和訳はちゃんとできているのである。にもかかわらず、何を言っているのか全く意味が分からなかった。たぶん読んでいる人も「私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから」といわれても意味が分からないと思う。ここでいう意味とは「なぜそういう言説が発生するのか」ということだ。
結局翌週になって担当の先生に上に書いたようなことをぶつけてみるとこうおっしゃった。「これはアウグストゥスの娘が、男出入りが激しかったのに、産まれた子供がみんな夫に(ちゃんと)似ているわけを質問されて答えたものですよ」、と。それでやっと分かった。つまり、妊娠しているときにしか、別の男と寝ないということなのだ。これが分かったときにはあまりにうれしくて普段高くて食べないパリのランチを奮発した。以来私は、訳すことはできてもテクストの背後の意味が分からない状態を「ニシナビプレナ」といって自分を戒める標語にしている。
ここから一つのことが導かれた。英語を含む外国語であれ母国語であれ、「分からない」というとき3つの段階に分かれると。
一つは、単語が分からない状態である。この状態の対処法は一つ。辞書を引くか、知っている人に訊くことである。
二つ目は、単語は分かるけれどそれらがどのようにつながっているのか分からない、つまり統語が理解できない状態である。この場合は、分かっている人に訊くのが一番速い。
最後に、単語も統語も理解できるのにそれが何をいっているのか皆目分からない状態(私のいう「ニシナビプレナ」)である。このときは、それを知っていそうな人に訊くのが近道であるが、訊いたところで分からないときもある。たとえば上の一節を私が小学生で、セックスのセの字も妊娠にメカニズムも知らないときに読んで先生の説明を聞いたとしても分かるわけがない。こういうときにいまの学生はどうするのだろう?「習っていない」といって開き直り、「教え方が悪い」といって責任を転嫁するのだろうか?それともセックスのセの字ぐらいは知ろうと、赤ちゃんができる神秘ぐらいは知ろうと教員に食らいついたり、自分で勉強しようとするのであろうか?少なくとも、後者でなければ大成する見込みはないと思う。
しかし、もっと心配なことがある。それは「私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから」と日本語に直した時点で安心してテキストも辞書も、そして思考回路も閉じてしまうことである。そしてそういうタイプの学生は年々増えているような気がするのである。

the bridge I crossed

The bridge of Cherokee, that's the bridge I crossed. . . .
                        (Bird)
(俺が渡ったのは、チェロキーのブリッジ(橋)だった)

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映画『バード』の中で、パーカーはバップのアイデアが実現したときの瞬間をこのように語る。ブリッジに二重の意味(「橋」と曲の「Bメロ、サビ」」)をかけている所が洒落(word play)になっているわけだ。
しかし、これは創作ではないだろうか?よく引用されるのは、以下のようなもっと「散文的」なインタビューである。
I kept thinking there's bound to be something else…. I could hear it sometimes, but I couldn't play it. Well, that night I was working over "Cherokee," and as I did I found that by using the higher intervals of a chord as a melody line and backing them with appropriately related changes, I could play the thing I’d been hearing. I came alive
(もっとなにか別の方法があるのだと、ずっと考えていた。その何かとは、時折聞こえてはいたけれどまったく演奏できないものだった。その晩、俺は「チェロキー」をやっていて、コードの上のほうの音をメロディーラインに用いて、それに沿った関係コードでバッキングする事を思いついた、するとずっと頭の中で聞こえてきたものを音に出す事が出来たんだ。それで俺は生き返った)。

もちろん映画の事だから脚色もあるだろうし、鮮烈な表現という点なら「ブリッジを渡る」ほうがすぐれていると思う。

でもその一方で、この映画ではパーカーがロックンロールを低い音楽として見下しているかのようなシーン(「なんでB♭だけなんだ!?」)があるが、現実のパーカーはどうだったんだろう?

They teach you there's a boundary line to music. But, man, there's no boundary line to art.
(音楽には境界線があるとよく言われる。でもな、芸術には境界線がないんだよ)