マイケル・ジャクソンが亡くなって、少しさびしい気持ちのG坂です。最近は特に好んで聞いていたわけではないのですが、亡くなってみるとその喪失感の大きさに気づかされました。
ちょうど『スリラー』のリリースが青春時代とかぶっているわりに、その頃はそれほど熱心に聴くわけではありませんでした。しかしマイルスがアルバム You're under Arrestでマイケルの "Human Nature"を取り上げたことで、がぜん興味が出てきてベスト版程度は聴くようになりました。ただ、ダンスに詳しくない私としては、彼の魅力を半分も楽しめたか自信がありません。
この人の一方の魅力は"We Are the World"と、その連作として聴かれるべき"Heal the World"といった「平和モノ」で、彼特有の優しいヴォイスとあいまって非常に説得力があります。こうした活動が当局に睨まれる原因となり、国策ともいえる規模のネガティブキャンペーンでイメージダウンを図られたことは記憶に新しいです。
それでもやはりこれらの曲は聴き継がれ、歌い継がれていくに違いありません。
続く世代について思いをめぐらし、子供たち、そしてその子供たちのためによりよい世界にしたいと声を上げよう、子供たちがよりよい世界だと知り、自分たちもさらにまたよい世界を創れると思えるように。"Heal the World"より
どこかのブログの記事で知って、ずっと楽しみにしていたTBSラジオの「TABOO SONGS?封印歌謡大全」(7/22 19:00-20:59)を聴きました。
パーソナリティーはラップの宇多丸と『封印歌謡大全』の著者石橋春海氏。
取り上げられた曲と封印された経緯ですが、取りこぼしがあるかもしれませんが、以下のとおり。
- 「イムジン河」聞き逃しました
- 「別れのブルース」淡谷のり子 戦時中でムードがいけない
- 「忘れちゃいやよ」渡辺ハマコ 戦時中で色気過剰
- 「檻の中の野郎たち」守屋浩 主婦連がクレーム。元歌が練馬鑑別所の「練鑑ブルース」ということで不良を助長する、軍歌のメロディー(誤解だったようです)
- 「関東流れ歌」渡哲也 任侠の歌
- 「びっこの子犬」加山雄三 「びっこ」という言葉
- 「手紙」岡林信康 部落差別を扱っているから
- 「金太の大冒険」つボイノリオ ・・・
- 「シンボル・ロック」梅宮辰夫 羽賀よりも稀代の悪だから(笑)
- 「ブラック・マジック・オールド・マン」海援隊 関税の輸入ポルノ塗りつぶし係という職業を差別しているから
- 「丸の内ストーリー」畑中葉子&ビートたけし 冒頭の畑中とたけしのやり取りが過激すぎる
- 「放送禁止歌」山平和彦 タイトルが挑戦的だから
- 「銃を取れ」頭脳警察 暴力革命賛美だから
- 「さすらい」克美しげる 歌手が殺人者だから
- 「かえしておくれ今すぐに」 フランク永井 「吉展ちゃん事件」の犯人に宛てた歌なので、今では放送されない
- 「不如帰」村上幸子 「血を吐く」という歌詞が昭和天皇の病状を連想させ自粛
- 「サマータイム・ブルース」RCサクセション 原発と地震の関係をうたっているから
話の中には「要注意歌謡曲取扱内規」というものの存在がでてきたり、「禁止はしていない」と言い張るNHK職員の話や、「不如帰」の時のように「誰かが命じたわけでもないのに、なんとなく自主規制の輪が広がっていった」という不気味で中心不在の日本的な状況も浮かび上がってきました。
しかし、コマーシャル明けなどのジャンクション部分でかかるモダン・ジャズ・ビッグバンドの曲がとてもよくて、そちらに耳がいっていたのも事実です。プロテストソングや社会的な問題提起の歌でも「もう少し洗練された強さがあればなぁ」と感じることがたまにありますね。
ともあれ勉強になる番組でした。
Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate.
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade
Nor lose possession of that fair thou ow'st;
Nor shall Death brag thou wander'st in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st:
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.
(William Shakespeare: Sonnet 18)
(君と夏の一日を比べてみようか?
君のほうがもっと美しく、もっと温和だ。
すさぶ風が五月の柔らかなつぼみを揺らすことはある、
また夏の貸借期間はあまりにも短い日にちしかない。
時に天をめぐる太陽という目があまりに熱く輝く時もあれば、
その金色の顔色が雲にさえぎられることも多い。
そしてまた、美しきものもいつかはその美しさから滑り落ち
たまたま、あるいは自然の変化によって崩れてゆくものだ。
でも、君の永遠なる夏が翳りゆくことはないし、
今君が持っている美しさの所有権を失うこともない。
あるいはまた、死の谷の影を君が歩むと、死が威張ることもない、
この永遠の詩行の中で時のある限り永遠に茂るのだから。
人が息をし、人の目が見える限り、
この詩は生きつづけ、君に命を与える。)
シェイクスピアの154篇からなる『ソネット』のうちでももっとも有名なものの一つが、この18番ソネット"Shall I compare thee . . ."です。例えば映画Shakespeare in Loveでは主人公シェークスピアがヒロインに送る詩がこの一篇であり、Darling Buds of Mayというタイトルのテレビシリーズも撮られています。上のタイトルに挙げた一節は、私が「暑過ぎ!(too hot)」というと、すぐさま口をついてでる口癖なので取り上げました。
しかし、この詩は名作です。永続性と脆弱性、若さと老化、美と醜、などといったアンチノミーが整然と、いや雑然と併記されています、"ars longa, vita brevis"ということわざの誤訳(本来は、「技能を修得するには長い月日が必要なわりに、人生は短い」=「少年老い易く学成りがたし」なのですが、「芸術は長い、それに比べて人生は短い」と芸術の優越性のように解釈されることが多いのです)を地で行ったような、芸術の優越性を物語っているようにも響きます。
しかし違うと思うんですね。これは、シェークスピアの宣言であると思うわけです。だからこそ、11行目でバイブルの『詩篇』に抗うようなことを(ここは『詩篇』の23章「たとえ死の谷を歩むとも、私は怖れません」を意識した一節です)かいていると思うのです。『ハムレット』でも「自然に向かって鏡を掲げる」という下りで、彼は自分の芸術家宣言(本来は芸術意識の登場以前なので、劇作家、詩人宣言です)をしていますが、これと呼応します。
最後の対句(couplet)など、生きているうちに一度は書いてみたいものです。「人が息をし、人の目が見える限り、この詩は生きつづける」・・・かっこよすぎます。それにしても、この頃のソネットに多用される「法学部的ターム」、シェークスピアはこの頃訴訟でも抱えていたのでしょうかね?
原爆投下60年ということで、昨日(8/7)NHKで「原爆投下に関わった側の言い分」を特集する番組をやっていました。エノラ・ゲイの乗組員や司令官らのうち生存している人たちに対するインタビューを中心として構成されていましたが、彼らはおしなべて「原爆投下は戦争を早期終結させるために必要であった」ときわめて強い口調で語っていました。
それを観ながら、彼らの自己中心的な主張に憤慨すると同時に、他方である種の同情を禁じ得ませんでした。なぜなら、彼らは皆沈痛な面もちで語っていたからです。
人は自分がもっとも確信を持てない場所、もっとも痛い場所を指摘されるときに、もっとも強い反応を示すものです。彼らが強弁すればするほど、それは彼らの後悔の表徴でありそこを斟酌する必要があると思いました。過去を責め続けて「人道に対する罪を犯しました」という懺悔を求め続けてもそれはありえないことです。人は常に「自分は合理的に判断して今ここにいる」と思いながら、散乱する現実をなんとか堪え忍んでいるものだから。むしろ彼ら自身が感じている結果の悲惨さを未来に向けて語ってもらうべき時なのではないのかと感じました。
こうした人々の中で、イーザリーという気象官が、戦後原爆投下の非をならし、却って精神病院に強制入院させられる事情も描かれていました。このイーザリーとユダヤ人哲学者アンダースがかわした往復書簡『良心の立入禁止区域』が同番組で紹介されました。この中でとくに感銘を受けたのは「君が精神病院に入れられているのは、君が狂っているからではなく、君の周りが狂っているからだ」というアンダースの言葉でした。チャップリンの『独裁者』の有名なシーン、逆さに飛ぶ飛行機を取り上げて、丸山眞男は『現代政治の思想と行動』の中で大意次のようなことを述べています。「ああやって逆さまになって飛んでいて、且つそのことに気づかないと、逆さまの世界が正しいと思えてきてしまう。」
チャップリン演じる床屋はユダヤ人女性が侮辱されているのを見過ごせず、突撃隊に立ち向かいますが、周りの人は最初彼をおかしい人だと思います。しかし、おかしいのは女性を陵辱して良しとする社会であって、床屋ではないはずなのですが、社会の価値観が転倒してしまうと、一緒に転んでいる側が正しく、まっすぐ立っている側がおかしいように観られてしまうということが丸山によって指摘されています。『独裁者』をこのような観点で観たことがなかったので、丸山の指摘を読んだときは非常に感銘を受けました。と同時に、アンダースの指摘もまた丸山の指摘と機を一にしていることにもテレビを観ながら感動しました。
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow; a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
---Macbeth (V, v, 19)
(明日、また明日、また明日が
のろのろとした足取りで一日一日を這い進み
歴史として記録された時の最後の一音節に辿り着く。
そして昨日という日は全て、死に向かう馬鹿者どもを
照らしてきたのだ。消してしまえ、つかの間の灯火など!
人生は歩く影法師、哀れな役者にすぎない。
出番がくれば舞台で騒ぎ、はしゃいでいても、
出番が終われば聴かれることなどない。人生は
白痴の話す物語だ。喧噪と怒りに満ちあふれてはいるが
意味などない。)
夫人の死(自殺)を知ったマクベスは、「あいつもいつかは死ななければならなかった・・・」と語った後、この独白を始める。もしこの世界でもっとも有名な独白を無味乾燥にパラフレーズするならば「人生は死へ向かってとぼとぼ歩くもの。人は哀れな役者、生きているうちは大騒ぎしているが死ねば終わり、意味などない」ということになるだろうか。以前に引用した『お気に召すまま』の「この世界はすべてこれ1つの舞台」ではじまるジェイクイズの独白と比べると、用いている比喩の枠組みは似ているのに、醸し出されるイメジは全く異なっていることに驚く。『お気に召すまま』では"one man in his time plays many parts"(そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる)と能動的に演じる役者であった人が、『マクベス』では歩く影法師、哀れな役者にまで落とされている。影法師は本体が動くことによって動くが、これは自ら動いているのではない。本体によって動かされているのである。だからマクベスのいう「哀れな役者」とは自ら演じているのではなく、実は演じさせられている役者のことだ。これを読んだ人は「人生は意味などない」と知って暗い気持ちになったり絶望的な気持ちになるだろうか?私はむしろ元気になる。なぜなら意味などないからこそ、倫理と実践が喚起されるからである。
こんな駄文でも熱心に目を通してくれている学生さんがいて、先日その人と話しているときにちょっと意見がすれ違っているのに気づいた。よくよく話してみると「倫理」という語の意味をお互いに違って使っていたことが分かった。彼女が「倫理=道徳的なもの」ととらえているのに対して、私は「倫理=非道徳的なもの」という意味で使っていたからだ。倫理とはたしかに道徳と一緒にして使われたりするので混同されがちだが、実は道徳とは全く異なるものである。道徳とは共同体によって認められている価値の体系であって、「そうすることがよい」とされている事柄の系である。したがって「道徳的にふるまう」とは、他人によって決められた価値体系に身をすり寄せることを指すのだ。一方、倫理とは「そうすることがよいかどうかは分からないが、私はこれをする」という決断を指す。
意味がある=価値があると分かっていることをするのに何も決断はいらない。しかし、意味がないこと、あるいは弁証論的に意味があると証明し得ないもの、つまり形而上学的な領域に属する問題に立ち向かうとき、人は決断を迫られる。マクベスはここで悲劇的なトーンを湛えつつもこのことを指しているのである。意味などない、ゆえにあらゆる意味を生み出しうる。
numquam enim nisi navi plena tollo vectorem
(私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから)
Macrobius, Saturnalia, II, 5, 9-10.
ラテン語である。私がこのテクストに出会ったのはちょうど大学院の2年目で、「古典語」の講座が人文学科の学部生向けに開設されたので担当教員にお願いして参加したときのことであった。
これほど悩んだ一節はなかった(英語も含めて)。辞書を引いて単語の意味は理解できた。文法書を丹念に読んで文のシンタックス(統語)も大丈夫だと思った。つまり、上の和訳はちゃんとできているのである。にもかかわらず、何を言っているのか全く意味が分からなかった。たぶん読んでいる人も「私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから」といわれても意味が分からないと思う。ここでいう意味とは「なぜそういう言説が発生するのか」ということだ。
結局翌週になって担当の先生に上に書いたようなことをぶつけてみるとこうおっしゃった。「これはアウグストゥスの娘が、男出入りが激しかったのに、産まれた子供がみんな夫に(ちゃんと)似ているわけを質問されて答えたものですよ」、と。それでやっと分かった。つまり、妊娠しているときにしか、別の男と寝ないということなのだ。これが分かったときにはあまりにうれしくて普段高くて食べないパリのランチを奮発した。以来私は、訳すことはできてもテクストの背後の意味が分からない状態を「ニシナビプレナ」といって自分を戒める標語にしている。
ここから一つのことが導かれた。英語を含む外国語であれ母国語であれ、「分からない」というとき3つの段階に分かれると。
一つは、単語が分からない状態である。この状態の対処法は一つ。辞書を引くか、知っている人に訊くことである。
二つ目は、単語は分かるけれどそれらがどのようにつながっているのか分からない、つまり統語が理解できない状態である。この場合は、分かっている人に訊くのが一番速い。
最後に、単語も統語も理解できるのにそれが何をいっているのか皆目分からない状態(私のいう「ニシナビプレナ」)である。このときは、それを知っていそうな人に訊くのが近道であるが、訊いたところで分からないときもある。たとえば上の一節を私が小学生で、セックスのセの字も妊娠にメカニズムも知らないときに読んで先生の説明を聞いたとしても分かるわけがない。こういうときにいまの学生はどうするのだろう?「習っていない」といって開き直り、「教え方が悪い」といって責任を転嫁するのだろうか?それともセックスのセの字ぐらいは知ろうと、赤ちゃんができる神秘ぐらいは知ろうと教員に食らいついたり、自分で勉強しようとするのであろうか?少なくとも、後者でなければ大成する見込みはないと思う。
しかし、もっと心配なことがある。それは「私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから」と日本語に直した時点で安心してテキストも辞書も、そして思考回路も閉じてしまうことである。そしてそういうタイプの学生は年々増えているような気がするのである。
The bridge of Cherokee, that's the bridge I crossed. . . .
(Bird)
(俺が渡ったのは、チェロキーのブリッジ(橋)だった)

映画『バード』の中で、パーカーはバップのアイデアが実現したときの瞬間をこのように語る。ブリッジに二重の意味(「橋」と曲の「Bメロ、サビ」」)をかけている所が洒落(word play)になっているわけだ。
しかし、これは創作ではないだろうか?よく引用されるのは、以下のようなもっと「散文的」なインタビューである。
I kept thinking there's bound to be something else…. I could hear it sometimes, but I couldn't play it. Well, that night I was working over "Cherokee," and as I did I found that by using the higher intervals of a chord as a melody line and backing them with appropriately related changes, I could play the thing I’d been hearing. I came alive
(もっとなにか別の方法があるのだと、ずっと考えていた。その何かとは、時折聞こえてはいたけれどまったく演奏できないものだった。その晩、俺は「チェロキー」をやっていて、コードの上のほうの音をメロディーラインに用いて、それに沿った関係コードでバッキングする事を思いついた、するとずっと頭の中で聞こえてきたものを音に出す事が出来たんだ。それで俺は生き返った)。
もちろん映画の事だから脚色もあるだろうし、鮮烈な表現という点なら「ブリッジを渡る」ほうがすぐれていると思う。
でもその一方で、この映画ではパーカーがロックンロールを低い音楽として見下しているかのようなシーン(「なんでB♭だけなんだ!?」)があるが、現実のパーカーはどうだったんだろう?
They teach you there's a boundary line to music. But, man, there's no boundary line to art.
(音楽には境界線があるとよく言われる。でもな、芸術には境界線がないんだよ)
We have developed speed, but we have shut ourselves in.
Machinery that gives abundance has left us in want.
Our knowledge has made us cynical; our cleverness, hard and unkind.
We think too much and feel too little.
--Chaplin. The Great Dictator.
(私たちはスピードを発達させてきたが、かえってその中に自らを閉じ込めてしまった。
豊かさをもたらしてくれる機械が私たちを欠乏に突き落としている。
知識のために私たちは皮肉屋になり、利口になった分、非情で冷酷になっている。
私たちは考えすぎて感じることがあまりに少ない。)

チャップリンの映画『独裁者 』の最後の演説の一部である。こういった対照法(antithesis)はポウプに頼めば手際よく処理してくれるかもしれないが、それではこの表現の直接性が失われるかもしれない。
初上映から65年。まったく色褪せていないことにむしろ驚かされる。いや、ますます現実味、そして凄みすら帯びてきている。いまこそ、チャップリンなのではないだろうか。
All the world's a stage,
And all the men and women merely players.
They have their exits and their entrances,
And one man in his time plays many parts,
His acts being seven ages.
--As You Like It (II, vii, 139-143)
(この世界はすべてこれ1つの舞台
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる、
年齢によって7幕に分かれているのだ。)
放蕩者のジェークイズが哲学者に変わる瞬間である。ここにはマクベスの"walking shadow, a poor player"のような暗い影は差していないが、それでもこれに続く台詞はリアリスティックで非情だ。結構長いのでここには引用しないが興味のある人は原作を読むとよいだろう。
この「世界は舞台」「私たちは役者」という思想は、生命や人生をメタな視点から見つめる足場を提供してくれる。しかし、この足場はあくまで倫理的なものであり、上のような考え方をすれば誰でも獲得できるような生易しいものではない。私の尊敬する詩人がかつてこう歌った。「君よ一生を劇の如く」。劇のような一生を送り、送りながらそれを劇であると理解して悠々と見下ろせる足場、これは実践的にしか獲得し得ないものだ。
He claps the crag with crooked hands,
Close to the sun in lonely lands,
Ring'd with the azure world, he stands.
The wrinkled sea beneath him crawls,
He watches from his mountain walls,
And like a thunderbolt he falls.
(Tennyson; The Eagle)
(彼は絶壁の岩を、鍵爪のついた手でがっちりと掴んでいる。
孤独な島々において太陽のちかく
蒼穹の世界に取り巻かれながら、彼は佇む。
眼下には皺うつ波が這っている、
彼は崖の頂きからそれを眺め、
雷斧の如き速さで急降下する。)
テニソンの詩「鷲」である。この詩は良い悪い以前に詩の教科書にうってつけの諸要素を備えている。一部で破格するものの全体が「弱強格四音歩(iambic tetrametre)」の三行連(triplet)であること、冒頭の音の様子がごつごつした岩場を表すような音であり、いわゆる音象徴の性質が強いことなど。しかしとりわけ私が注目しているのは「眼下には皺うつ波が這っている」という四行目である。
私の尊敬する桂冠詩人がかつてこう言った:「詩とは分析に対する総合であり、いままで出会いもしなかったような言葉がそこではじめて出会う」と。「皺(wrinkle)」と「海(sea)」、そして「這う(crawl)」という語は一緒に使われる機会の少ない語で、おそらくここで初めて出会ったのであろう。だがどうだろう、鷲の視点から見れば眼下の海は波打つのではなく皺がよって這っているように見えるのではないか。
Cowards die many times before their deaths,
The valiant never taste of death but once.
--Julius Caesar (II, ii, 32-37)
(臆病者は死ぬ前に何度も死ぬ思いをするが
勇者が死を味わうのは一度きりである)
昨晩、テレビで映画『ジュリアス・シーザー』をやっていたが、シェークスピアのそれではなくて史実にのっとったものであった。シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』はプロットが凝縮され一貫しており、ブルータスとアントニーの対照的で印象的な演説があるため英語圏の学生が最初に読む「シェークスピア」となっている。上に引用した一節は様々な凶兆を気にして、登院を思いとどまるようシーザーに懇願する妻キャルパーニアに向かって彼の述べた台詞である。この後、キャルパーニアがあまりにしつこくせがむので一旦は元老院行きを思いとどまるのだが、暗殺者の一味ディーシャスに上手く言いくるめられて登院し、そこで暗殺されることとなる。
臆病者が死ぬ前に何度も死に、勇者は一度しか死を味わわないというのは、臆病者は死を恐れるあまり死にそうな気持ちになる事が多いのに対して、勇者は死を恐れぬために死を味わうのは死ぬときだけだという意味である。ダンが死に向かって呼びかける「死よ、驕るな!」でも同様のロジックが展開されている。私は自殺する人の気持ちがわからない。むかしあるニュースキャスターが「自殺する勇気があるなら生きていけるはずだ」と言ったそうだが、自殺は勇気を持って行うものなのだろうか?むしろ、何度も迎える死に対する恐れから臆病者が起こす事なのではないだろうか?
どうせ死ぬのに、なんで死ぬのか分からない。
Mom and Pop were just a couple of kids when they got married.
He was eighteen, she was sixteen, and I was three.
--Billie Holiday (Lady Sings the Blues)
(ママとパパが結婚したとき、二人はまだほんの子供だった。
パパは18、ママは16、私は3つだった。)

ビリー・ホリデイの自伝Lady Sings the Blues(邦題『奇妙な果実』)の冒頭である。だが、敢えて言えば二人は結婚はおろか同棲もしていなかった。そしてクラレンス・ホリデイも、実は彼女のパパなどではなかった。
「私生児として生まれ、幼い頃から売春婦として働かされ、歌で成功するも人種差別の辛酸を舐めさせられ、酒とドラッグにおぼれ、恋に破れるジャズシンガー」ビリー・ホリデイを描いたこの「自伝」は、だが実際には自伝などではなくゴシップ記者のウィリアム・ダフティーが扇情的に誇張し捏造して作り上げた質の低いゴシップ記事なのである。しかし、彼やその妻メイリー・ダフティー(フロー・ケネディーをして「彼女の寄生虫」と言わしめた人物)にだけその責任があったわけではない。読者や聴衆もまた「そういうビリー・ホリデイ」を読みたがり聴きたがったのだ。そして不思議な(というかもっともな)ことに、彼女自身がそのイメージを受け入れ、今度は積極的にそれを追い求めるようになった。「ビリー・ホリデイの伝説」とはそれを求める聴衆の欲求と、演出する芸能界という装置、そしてビリー自身という素材が複合して出来あがったものなのだ。
I hate ingratitude more in a man
Than lying, vainness, babbling, drunkenness,
Or any taint of vice whose strong corruption
Inhabits our frail blood.
(Twelfth Night 3. 4. 338-341)
(私はなによりも、人間の忘恩を憎みます。
嘘をついたり、見栄を張ったり、無駄口を叩いたり、酒に耽ったり、
私たちの弱い血の中に棲みついて強い悪影響を及ぼす、そのほかのどんな
邪悪の汚点よりも。)
ヴァイオラは忘恩をその他の汚点と比べてもっとも憎むといっているが、面白いことに忘恩の人というのは「嘘吐き」で「見栄っ張り」で「無駄口」ばかりで「酒浸り」なことが多い。つまり忘恩は必ずその他の汚点を伴って現れるものなのだ。年中嘘偽りを言い歩いているけれど恩を知る人とか、正直で謹厳実直な忘恩の輩というのは聞いたことがない。
詩人は別のところでもこう言っている。
I (am rapt, and) cannot cover
The monstrous bulk of this ingratitude
With any size of words. Timon of Athens. 5. 1. 62-64)
(この途方もない忘恩は、どんな数の言葉を
用いても、覆い隠す事など私には出来ません)
忘恩の人は、その忘恩ぶりを覆い隠すために嘘や作り話で自分を飾り立てている。しかし時がたてばそれらの嘘や作り話は剥げてゆき、真実が明らかになる。
Let it go naked: mem may see't the better. (5. 1. 65.)
(ならば、裸にしておけ。そのほうが人もよく見えるだろうから)
時が忘恩を丸裸にするまで待ってもいい。だが、その間に騙された人々は気の毒である。忘恩とは戦う必要がある。
Nature to all things fix'd the Limits fit,
And wisely curb'd proud Man's pretending Wit:
As on the Land while here the Ocean gains,
In other Parts it leaves wide sandy Plains.
--Pope. An Essay on Criticism. 52-55
(自然の女神は全てのものに、ふさわしい限界を設け、
高慢な人間の思いあがった知恵を賢くも抑えた。
ちょうど大陸で、こちら側では大海が侵食し
別の場所では広い砂浜が広がっているように)
ポウプが用いる「侵食する海」のイメジはシェークスピアのそれと一緒で陸と海が隆替を繰り返すものとなっている。だが、これは人生や歴史を歌ったものではなく、一個の人間の才能の様相を歌ったものである。この直後に「記憶力」「判断力」「想像力」といったジョン・ロックが好みそうな諸能力(と、それが隆替していく様)を具象的なイメジを用いて歌っている。ここにはダンやシェークスピアのような広がりは感じられない。もっと細かく、小さな世界を精緻なイメジを駆使して分析するエートスが働いている。そして、このパラグラフの最後は
Like Kings we lose the Conquests gain'd before,
By vain Ambition still to make them more:
Each might his sev'ral Province well command,
Wou'd all but stoop to what they understand.
64-67
(国王たちのように、私たちは以前に征服したものを
もっと殖やそうと空頼みの野心を起こして失ってしまうのだ。
自分で理解しているものにだけ身を屈めていれば
誰でも各々の領地をよく治められるはずなのに)
と世間知のような言葉で結ばれているのが面白い。ポウプは若くしてこの作品を書いた。そのためダンやシェークスピアのような深みがないのは仕方がない。しかし、深みに欠けるのと同時に変に老成しているのはなぜだろう。
When I have seen the hungry ocean gain
Advantage on the kingdom of the shore,
And the firm soil win of the watery main,
Increasing store with loss and loss with store;
--Sonnet 64
(飢えた海洋が陸の王国を侵食し、
こんどは固い大地が大海原に打ち勝ち、
損得が互いに隆替していく様を
私が目にする時に)
ダンのところでも少し触れたが、海による陸の侵食のイメジを用いたシェークスピアの『ソネット』64番からの四行連(quatrain)である。どちらも死を示すイメジとして用いているのであるが、ダンの場合一方的に陸地が海洋によって侵食され減少していく直線的なものであるのに対して、こちらは陸と海とが相争い、互いに勝ったり負けたりしてゆくダイナミズムを含んでいる点で好きである。人生というのは確かに、死を目指してのろのろと這っていくようなものかもしれない。しかしそこには勝ったり負けたりのドラマがあるし、またそのドラマを行き切ってこそ、死の意味を創り出すことが可能になるのではないだろうか?いずれにせよ、人は雨が降るように死んでいくのだから。
この陸と海との戦いはポウプの手に掛かると、縮小化されて才能や性向を示すイメジとしてのんきに用いられるようになる。
No man is an Island, entire of itself; every man is a piece of the Continent, a part of the main; if a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if a manor of thy friends or of thine own were; any man's death diminishes me, because I am involved in Mankind; And therefore never send to know for whom the bell tolls; It tolls for thee.
John Donne, "Meditation XVII"
(人間は島ではない。人間はそれ自身で全体ではない。全ての人間は大陸の一部、本土の一角なのだ。土くれが海によって洗い流されれば、ヨーロッパはそれだけ小さくなる。ちょうど、岬が縮小されるように、そして君の友人や君自身の荘園が減っていくように。誰かの死は私自身を小さくするのだ、なぜならば私は人類全体に含まれているのだから。だから決して誰がために鐘は鳴るのか知ろうとしてはならない。鐘は君のために鳴るのだ。)
ジョン・ダンの文「瞑想17」の一節である。この一節は締めくくりの"for whom the bell tolls"(誰がために鐘は鳴る)が後にヘミングウェイの同名の小説のタイトルとなったことでも有名である。ここでいう"bell"とは"passing-bell"、すなわち弔鐘のことであり、鐘が鳴ったからといって人を遣って誰が死んだのかを問わせてはならないという意味である。
ここで語られている個と類の関係性は古くから思想のトポスとなっているし、海に侵食される大地のイメジもシェイクスピアの『ソネット』やポウプの『批評論』でも用いられるおなじみのものである。私が面白いと思うのは、日本人から見れば、イギリス人は島のような人々であるし、それも絶海の孤島みたいな人が多いように思える事である。むしろそういう人が多いところだからこそ、このような思想が強調されるのかもしれない。
You see, Adso, the step between ecstatic vision and sinful frenzy is all too brief.
--The Name of the Rose
(よいか、アドソ、恍惚の幻視と肉欲の罪深き熱狂との差はあまりにも僅かなものなのだ)

映画『薔薇の名前』で「バスカーヴィルのウィリアム」(ショーン・コネリー)が口にする台詞である。弟子アドソに対して異端(「罪深き熱狂」)の説明をしているのだ。映画ではわかりづらいが原作を読むと、実はこの台詞がウィリアム陣営(フランシスコ修道会)の指導者「カサレのウベルティーノ」に対して言われたものであるという事が分かる。彼もまた、恍惚の幻視によって導かれ修行しているという設定であるのだ。つまり、ウィリアムから見ればウベルティーノの「正統」の幻視も、彼が告発する「異端」の熱狂も、その差はごく小さいと言っているわけである。
修道士ウィリアムは当時の「スコラ哲学」を信奉しており、神学を理性で理解しようと勤めていた人物という設定である。したがって、奇跡や幻視などに頼る信仰にはきわめて批判的だ。彼にとっては相手の無知につけこんで人を脅すことによって集める尊敬などは唾棄すべきものなのである。そしてこうした教義に人がのめりこんで行く原因に「純粋さ」を挙げている点が興味深い。原作では次のような問答が師弟の間でなされる:
ウィリアム「だが、純粋さというのは何であれ、私を恐れさせる」
アドソ「純粋さの何があなたをもっとも恐れさせるのですか?」
ウィリアム「性急な点だよ」
現代でいえば「原理主義」や「過激派」といわれるももの姿をよく捉えている。事実、著者であるウンベルト・エコーはイタリアの「過激派」が純粋な理念から出発しながらも、現実との格闘の中で失望と焦燥から自滅的なテロ行為へと走っていった姿を重ね合わせてこれを書いた、とも言われている。
「改革を夢見る純粋な魂が・・・現実の社会の大地に、根を張り、枝を茂らせて」行けるように粘り強く努力していくこと、そこに信仰する意味があるのではないだろうか?
Here lies one who often lied before,
But now he lies here, he lies no more.
--an epitaph
(ここにかつてしばしば嘘をついた者が横たわる
もうここに横たわっているから、嘘はつかない)
某弁護士の墓碑銘(epitaph)である。この墓碑銘は洒落(word play)の教材として用いられる有名なものである。今日がApril Foolなので取り上げてみた。弁護士がすべて嘘をつく(lie)かどうかは分からないが、弁護士といわずすべての人はいずれ目をつむって横たわる(lie)のは間違いのないところである。
Knowledge is of two kinds. We know a subject ourselves,
or we know where we can find information upon it.
--- Samuel Johnson (Boswell's Life of Johnson)
(知識には2種類ある。ある主題について私たち自身で知っている事とその情報はどこで見つける事が出来るかを知っている事だ)
ボズウェル『サミュエル・ジョンソン伝』の有名な一節は、さらにこう続く:When we enquire into any subject, the first thing we have to do is to know what books have treated of it. This leads us to look at catalogues, and at the backs of books in libraries.(私たちが何かのテーマを調べようとする時、最初にすべき事はどの書物がそれを扱っているかを知る事である。そういうわけで、私たちはカタログや図書室に並ぶ本の背表紙をながめるのだ。)図書室で本のほうへすっ飛んでいき、熱心に背表紙を眺め始めたジョンソン博士が「そんなに背表紙がお好きとは妙な癖もあったもんですね」と言われて、即座に返した寸鉄がこれだ。パソコンを見るとすっ飛んでいき、その前に何時間でも座っている人が「ネット中毒ですね」と非難されたらこう言い返せばいいというお手本である。ネットはたしかに、図書館やカタログよりもさらに調べやすいツールである。いわば2番目の知識をどこまでも簡易化、標準化しようというエートスが端的に具現化したようなものである。もはや誰でも、調べたい事を即座に調べる事が出来るようになっている。あとは「何を調べるべきか」という倫理的問題だけが残されているだけかもしれない。
Bassanio: Do all men kill the things they do not love?
Shylock: Hates any man the thing he would not kill?
(The Merchant of Venice. 4. 1. 66-67)
「気に入らないから殺す、それが人間か?」と問いただすバッサーニオに対して「憎けりゃ殺す、それが人間だ」と言いはなつシャイロック。『ヴェニスの商人』のあまりにも有名な場面である。この交差法(chiasmus)は日本語に直訳するとかえって不自然になるせいか、小田島・福田訳とも平行法(parallelism)を用いている。
一体この一節にどれほどの人間が解説を加えているだろう?ある人は言う:「シャイロックは正しい、それが人間の本性だ」。また別の人は言う、「憎けりゃ殺す、それは人間だけだ。動物は憎しみから殺したりはしない。人間は本能が壊れているんだ」云々。もう、そういう議論はお腹一杯である。そうしたニヒリスティックな、あるいはペシミスティックな身振りは、虚無的・悲観的な事態を達観して受け入れられる自己の優越性を誇示しているに過ぎないのだから。
人間だからこそ、同時にバッサーニオのような問いを立てる事が出来る。「憎けりゃ殺す」のも人間なら、それに異議を申し立てる事が出来るのもやはり人間だけなのだ。したがってこの問答は徹底して人間の内側の戦いを描いているのであり、獣より下だとか、本能が壊れているとかいったようなのんきな事態ではないのである。
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