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能登路雅子 『ディズニーランドという聖地』 (岩波新書)

授業で話をしたり、レポートやログを集めたりしていると痛感するのですが、今の学生達は「ディズニー」という言葉に対して敏感に反応、しかも肯定的に反応する人が割と多いですね。先日の授業でも左翼系の学術誌New Internationalistの記事を読んだのですが、レスポンスが非常に多くありました。今回紹介するこの一冊はThe Universe of Englishの中の一編 "Disneyland: America's Sacred Land"の元となった本で、どちらも能登路先生が書いたものです。おそらく英文の方は本書を簡約し英文で書き下ろしたものなのでしょう。平易な筆致で語りながら、しかしディズニーランドの持つ文化的・国家的意義を説得力豊かに描き出しています。

この本を楽しいディズニーランドガイドだと思ったら大間違いです。またディズニー賛美の本でも決してありません。むしろ、ディズニーランドの持つ政治的、文化的なイデオロギー性、大衆操作やイメージ形成の戦略を克明に分析した一級のディズニー批判です。しかしこの本に惹きつけられるのはなぜでしょう?そこには、自ら理解したことを、よけいな概念やイデオロギーを押しつけることなく誠実に書いている著者の誠意が見えるからではないでしょうか。

一般に、身近な話題から文化論・文明論を展開する本の中には、途中で信じられないぐらいの論理の飛躍があったり、唐突に難しい学術用語がでてきて煙に巻かれたと思ったら、あれよあれよという間に牽強付会な結論に辿り着かされていたりというものがあります。かと思うと反対に、すっきりと筋は通っているんだけれど、出された結論を読んでも「それで一体どうしたっていうの?」とこちらが訊きたくなるような、毒にも薬にもならないどうでもよい話題を展開しているものもあります。しかし本書は等身大の話題から出発し、よけいな中間概念を駆使することなく話を展開し、毒にも薬にもなるアメリカ文化論に到達します。素材と形式、そしてテーマが見事に合体したすばらしい文化論だと思います。

こういう書物を読むとき、そのテーマや結論を云々する以前に、ここで実演されている「知の技法」に目を向けるべきだと考えます。ディズニーランドをどう思うか、ディズニーランドとは何か、という点で著者と読者の意見が食い違ってもいいし、食い違うのは当然のことです。しかし学問研究の手続きは共通のものですし、開かれたものです。今は忙しいでしょうけれど、夏休みに入ったら著者の手法や誠実な論理の展開に注意を払いながら、じっくりとこういう本を読んでみたらどうでしょう?得るものは大きいはずです。

カント 『啓蒙とは何か』 (岩波文庫)

カントのもたらした比類なき転回とは、それまで迷信のようなものが理性の正しい使用を妨げ、その結果人は誤ると考えられていたものを、むしろ理性そのものの中に誤謬の原因があると指摘したことでした。これが一般的な「啓蒙思想家」達とカントという一人の思想家との決定的な違いです。このことを行ったのは『純粋理性批判』という大著においてでしたが、もう一つそれに匹敵するほどの大転回を成し遂げているのがこの『啓蒙とは何か』です。

一般に私たちが「ホンネと建前」というとき、ホンネというのは私たち自身の直接的な思いであり、一方建前とは共同体の一員としてそういわざるを得ないような嘘を指すことが多いわけです。したがって、ホンネとはプライベート(私的)な思い、建前とはパブリック(公的)な思想である、このように私たちは漫然と考えているわけです。

カントはこれを鮮やかに転回してしまいます。

自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい(中略)ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、---公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。

これは当然、学者の特権をいったのではなく、一人の人間が職業人として発言する場合には私的(プライベート)な発言であるが、一人の人間として発言する場合には、それは公的(パブリック)な発言である、という意味である。これは私たちの抱く「プライベート?パブリック」とは全く逆向きの発想ではないでしょうか?

たとえ会社のことや世間のことをおもんぱかって「建前」を並べ立てても、それはあくまで会社や世間(あるいは国家)という私的共同体のプライベートな価値基準にすり寄ったに過ぎない、それに対して一個の人間として理性を(何ものにも妨げられることなく自由に)使用することは、パブリックに考えることであるというのがカントの言っていることなのです。それに対して私たちがいうホンネとは、理性を使用していない状態、自由とは反対に自分の欲望に(そして欲望とはヘーゲルがいうように実は常に他者の欲望です)隷属している状態に過ぎないのです。私たちがこの本から学ぶべき大切なことは、一個の人間として自立して考えることであり、そのためには「勇気」が必要であるということです。そしてカント自身が、まさにここに書かれているように自立して、パブリックに考えたことを問うていることが私たちを感動させ、勇気を与えるのです。真に勇気づけられる書物というのはこういうものを指すのだと思います。

東京大学教養学部英語教室 The Universe of English (東京大学出版会)

二年ほど前までは、ほとんど毎年といっていいほどこの書物をテキストとして使用していました。数年間、この続編というかリニューアル版The Universe of English 2を使ったこともありましたが、2は1の持っている魅力を嘘のようになくしてしまい、悪い本ではないもののふつうのアンソロジーになってしまったのは不思議に思えます。1を編むときに漲っていた未聞のプロジェクトに取り組むワクワク感やグルーヴ感が、2では自動化され、ルティーン化されてしまったのでしょうか。それとも1を越えなければという意識が、かえって力みになってしまっていたのでしょうか。

Part 1冒頭の絵画論から既に魅力いっぱいです。オランダの画家デ・ヴィッテとフェルメールの作品をもとに17世紀のオランダ---デカルトのいう砂漠---で発達した資本制とそれに伴う家族の変容が彼らの絵画の上にどのように表れているかを、簡潔な文体で分析されています。

以降「分離脳研究」から分かった右脳と左脳の働き、ベイトソンの名著から視覚像形成のプロセス、ばい菌と食べ物の戦いと続き、本書で最も重要だと思われる「エッフェル塔」の一編にいたります。この「エッフェル塔論」はバルトが下敷きになっていると思われますが、ハイデガーやショーペンハウエルらの思想がちりばめられ、近代批判のテクストとしても読解が可能な多重的なものです。自分で読むのも大変なら、他人にここに書かれていることを伝えるのはまして大変なことですが、それだけに相手に伝わったと感じられたときには一種のグルーヴ感が生まれるんですね。

Part 2以降も、「宇宙論」「進化論」「労働市場の発生」「ディズニーランド」「縮み志向の日本人」等々刺激的な文章にあふれています。毎日英字新聞を読むのは大変だ、一冊の小説を読み通す根気がなかなか続かないと考えている人は、この本を読んで英語の勉強に再挑戦してみてはどうでしょうか。

板坂 元 『考える技術・書く技術』 (講談社現代新書)

著者の板坂先生は短大で副学長をされていたのですが、私にとっては文章作成法の恩師です。先生の授業で用いたテキストがこの『考える技術.書く技術』でそれまで中学・高校と「心に浮かぶことを書きなさい」「自由に考えて書きなさい」と作文教育をされてきた私にとっては鮮烈な印象をもたらす本でした。先生の授業と翌年のテッド・ミラー先生の英語表現演習のふたつが私にとって作文技法の原点であり、今でも文章を書くときはこれらの授業で学んだことをイメージしながら書くことが多いのです。

本書では発想法から情報収集と、カードを使った情報の整理法。そして最後にカードからの脱出が手際よく説明されています。しかしこの本でもっとも興味をそそられ、そしてもっとも大きな影響を受けたのは「黄色いダーマトグラフ」と「京大式カード」の下りです。ダーマトグラフというのは鉛筆削りのいらない色鉛筆で、現在のマーカーのような使い方をするものでした。もちろん当時から蛍光マーカーはあったのですが、文庫などに使うと裏側に抜けるのでこのダーマトグラフを用いたわけです。詳しくは三菱鉛筆「鉛筆なんでもQ&A」を見てもらえれば分かると思います。これは私のみならず、私の周りでも結構流行していました。むかし自分が読んだ本を見返すと、ところどころ黄色い線が引かれていて当時のことを思い出します。

京大式カードとはB6サイズの横型カードのことで、ここに思いついたことを書き込んではボックスに投げ込んでいき、ある程度たまると整理するのですが、そのとき見出しの立て方が悪いと非常に苦労するわけです。そこで本書では「逆ピラミッド型」「動詞を含む短文を見出しに使う」といったふつうとは逆の発想でカードを整理する方法を薦めています。

「文章の書き方」「論文作成法」のたぐいは現在巷にあふれかえっていますし、もっと実用的でほとんどプログラムのような体裁のものも出ています。しかし、本書はそれら実用書とは一線を画した古典的なたたずまいを備えた本です。読み物としてもおもしろいことがその印象をいっそう強くしています。続編もありましたが、現在絶版のようです。

ホメロス 『イリアス(上下)』 (岩波文庫)

テニスンの邦訳で有名な入江直祐先生はいい意味での教養人で、学術論文のたぐいはほとんど書かないものの、若い頃は芥川龍之介に気に入られ、その西洋文学に対する造詣の深さはでは人後に落ちない方でした。この先生がお辞めになった頃から、大学にも教養人のいる場所が徐々に少なくなり、いまではアメリカ風の "Publish, or perish"(出版せよ、さもなければ消えよ)という殺伐たる成果主義と、財界におもねったような中途半端な実用主義に陥って、幅の広い話を聞く機会が減ってしまったのは時の流れとはいえ残念なことです。

ある時先生に「まず絶対に読んでおかなければならない作品は何でしょう?」と伺ったことがありました。先生は即座に「ホメロス、ダンテ、シェイクスピアだね」。それだけおっしゃると、後はニコニコしておられる。入江先生はそういう方でした。自分で読んでみて、なぜそうなのかは自分で理解せよということだったのでしょう。

『イリアス』はいまから2700年前に成立した叙事詩で、それまで口承で伝えられていたものをホメロスが文字に表したといわれています。舞台はトロイア戦争末期。ストーリーについては「トロイア戦争」を調べ、「パリス」「ヘレネ」「アキレウス」「アガメムノン」「ヘクトル」らの名前とあらすじを頭に入れてから読んだ方がいいでしょう。口承文学をルーツにもつため「脛あてよろしき」アカイア人とか「口前の甘い」ネストアーといった枕詞が煩いほどにつけられていて筋が分からなくなってしまうからです。特に私たちの頃は呉茂一氏の訳が一般的で、原文の風味を強く残した名訳といわれていましたが、その分読みづらいところもありました。一方、上にも紹介した岩波版は散文による新訳で、冒頭には各章の梗概がつけられているなど読みやすくなっているようです。

人間の争いと平行して、神々も二派に分かれて争う。それどころか、人の争いに油を注いだり、火をつけて回ったり散々な神様達と、身勝手な英雄達が跳梁跋扈する叙事文学。ニーチェがある種の憧憬をもっていう「強いことがすなわち正義であった時代」を舞台とする、現代の目から見ればかなり破天荒な叙事文学をいつかタイミングを見つけて読んでみてはどうでしょうか。

森鴎外 『山椒大夫・高瀬舟(他四編)』 (岩波文庫)

鴎外が晩年に書いた歴史物は、司馬遼太郎や吉川英治らの書く「歴史小説」とはちょうど反対のベクトルを向いています。司馬遼や吉川の歴史小説は大きな時代、あるいは時代精神という物語のもとで、登場人物が意志を持ちそれを実現しようと行動し、あるいは成功しあるいは失敗する物語が交差することによって織りなされているのが特徴です。私たちはこれらを読んでいてワクワクし、時に共感し時に反発を感じるわけです。

一方、鴎外の歴史物はというとまず、大きな時代精神のような物語の枠組みがないのです。いきなり人が出てきて、おまけにその人はもうすでに何かを「してしまった後」だったりするわけです。そして何かを「しでかしてやろう」とか、これを達成しようという意志を持たぬままに何かをしでかしてしまい、しでかしたことに対して呆然としているのです。いかにも怪しげな山岡大夫の船に乗り込み危機が迫っているのに母親は大夫にあらがうことができない。無知だからでもない、臆病だからでもない、「自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきり分かっていない」のです。

「高瀬舟」の喜助にしてもそうです。ここに安楽死の問題を持ち込むことは簡単ですが喜助自身はそのことに気づいていません。というよりどうしてこんなことをしてしまったのか途方に暮れているのです。「あとで思ってみますと、どうしてあんな事ができたかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます」と自分のとった行動に何らかの意味や目的を見いだせずにいます。一般に物語、あるいは物語る欲動というのは意味と関係づけられます。物語に出てくる登場人物は常に意味のある行動をとります。そして物語る欲動とは自分の(あるいは他者の)行動に意味を付与したい欲動なのです。これに対して喜助は物語る欲動をもっていないのかもしれないし、あるいはもつ必要がなかったのかもしれません。いずれにしても、喜助は自分の行為の意味をあれこれ詮索したり、自己弁護の物語をとうとうと論じ立てずに淡々と出来事を語ってゆくのです。

鴎外の歴史物にはこうした「物語る欲動」をさっさと捨ててしまったようなところがあります。さらに「物語性」の排除をだめ押しするのが、話の最後につけられた「縁起」あるいはエピローグです。本来エピローグは、クライマックスに達した物語の余韻を響かせるために置かれているものなのですが鴎外の場合は全く違います。「最後の一句」では「いち」の言葉に関連してマルチリウム(自己犠牲)の問題に言及していますが、結局父親が助命されたのは、こうした精神的な理念からではなく「当時の行政司法の、元始的な機関が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹」してしまったという事情がエピローグにつづられているのです。エピローグをもって「物語性」を排除するため、上の一冊には収録されていませんが「大塩平八郎」そして「興津弥五右衛門の遺書」にいたってはただの年表、あるいは家系図を延々書き連ねています。

歴史というものを大きな物語としてとらえ、あるいは歴史を物語る欲動にとらわれていさかいを繰り返している現代において、鴎外の歴史物がもたらす有効性というのは決して低くないと思います。

シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』(岩波文庫)

シェイクスピアの諸作品のうちで、初学者にも取っつきやすいのは『ロミオとジュリエット』と今日取り上げる『ジュリアス・シーザー』だといわれています。『ロミオ』は何度も映画化されてプロットがよく知られていることと、「はじめて読む」ということはとりもなおさず若い人が対象となるので「恋愛ものがいいだろう」という感覚も含まれて初心者向けとなっているわけですね。私も大学に入ってはじめて読んだのがこの作品で(学祭で『ロミオ』の展示をやることになり読みました)したが、あまりの饒舌さにたじろいだ記憶があります(マブの女王の下りなど)。あとは、なぜか乳母の声優をやらされて妙なババアの声色で台詞をテープに吹き込んだことが記憶に残っています(笑)。

『ジュリアス・シーザー』はシェイクスピアの作品としては、英米の学生が最初に教科書で触れるものです。それはプロットがしっかりと凝縮されている点、散文と韻文(ブランク・ヴァース)で巧く書き分けられている点などが教材としてうってつけだからでしょう。プロットはシーザーの凱旋からはじまり、キャシアス?ブルータス一味の陰謀、シーザー暗殺、ブルータスの演説、アントニウスの演説をへて、内乱?キャシアス・ブルータスの滅亡までが描かれています。実際には数年にわたる出来事が凝縮された筆致で、あたかも数日の出来事のように思わせるのはこの詩人の得意とするところです。

この作品を特徴づけているのは、ブルータスとアントニウスの演説です。シーザー暗殺でざわめく市民に向かって、ブルータスは「私はシーザーを愛していた。しかしシーザーよりもローマを愛していた。シーザーはローマを私しようとした。故に暗殺した」というロジック(論理)を散文で語ります。この演説を聴いた市民は納得し「シーザー暗殺やむなし」の結論に至ります。

ところがシーザーの腹心アントニウスが登場し、演説を始めるや事態は一変します。アントニウスはロジックを用いず、これに代わるにレトリック(弁論術)をもってします。「私はブルータスたちを非難する気は全くない」「シーザーはローマを愛していた」「市民のために遺産まで残していた」「ローマを私しようなどという野心は毛頭なかった」「死体はこれほどまでにむごい状態である」ということを原文ではブランク・ヴァース(無韻詩)という形式で語ります。おまけに話の合間に「しかしブルータスは高潔な男だ」というほめ言葉を何度も挟むわけです。これはブルータスが優勢な状況で下手にブルータス批判をすれば自分の命がさらされるであろう危険を回避するだけでなく、何度も繰り返すことによって「ほめ殺し効果」、聴いている市民たちの心にほめられている対象(ブルータス)に対するある種の反発心を芽生えさせる効果も持っているわけです。ここがこの作品全体の肝となっているといってもいいでしょう。

翻訳は上のリンク先にある中野好夫訳(岩波文庫)のほか小田島雄志訳(白水社)福田恒存訳(新潮文庫)などが代表的です。

アリストテレス『詩学』 (岩波文庫)

この本にはアリストテレスの『詩学』とホラティウスの『詩論』の古典詩論2編が載っています。私のように18世紀の古典主義文学を研究している場合はホラティウスの『詩論』もかなり重要になってくるのですが、一般的な読者はアリストテレスを読んでおけば十分でしょう。ここでアリストテレスは『悲劇』と『叙事詩』について述べています。もう一つの重要なジャンルである『喜劇』に関するアリストテレスの論は現在残っていませんが、この「失われた喜劇論」をベースに中世修道院を舞台として書かれた「衒学的推理小説」が『薔薇の名前』です。この小説とその映画についてはわずかですがブログで言及しています。

『詩学』がそれ以降の西洋文学に与えた影響は計りしれません。有名な「三一致の法則」(時間、場所、行為の一致)や「悲劇の筋立て」(はじめ、なか、おわりの分類)、「人物」よりも「筋」の重視、そして「カタルシス論」など、功罪合わせてその影響は近代文学にまで及んでいます。功の部分は劇一般に対して明確な構成原理、批評原理を与えたこと、さらに「カタルシス」のように論争含みではありながら、近代にまで通用する「用語」を生み出したことです。反対に罪の部分は一部の批評家たちが彼の原理を墨守しすぎて、その結果形式的な批評論が横行し、英文学(とりわけ18世紀)において闊達(かったつ)な詩や劇を生み出す阻害要因となっていたことが考えられます。

これは優れた詩や劇を生み出すための一種のマニュアル本として書かれたものです。従って用例も当時の具体的な作品に基づいているため、注釈を読むのがうるさく感じられる人もいると思います。しかし、その反面この「マニュアル本」が2300年の歴史を生き抜いてきたことに畏れを通り越して恐ろしさを感じませんか?現代の文学作品にも十分通用する普遍性を備えているんですから。いずれにせよ、アリストテレスを読むといって、いきなり『形而上学』などを読み出して挫折する(昔の私のようになる)よりも、この一冊を読んでよそで「アリストテレスを読みました」と吹聴してみてはどうでしょうか?(笑)

池川明『ママのおなかをえらんできたよ』(リヨン社)

実はこの本、じっくりと読んではいないのですが平塚の交流座で知り合った方(副白ゆり長さん)のことが載っているので紹介させてもらいます。この本は産婦人科医の著者が全国の産婦人科医から聞き取り調査を行い、子供たちの「生まれる前の記憶」、いや「おなかに入る前の記憶」を中心に収集したものです。彼女(平塚の知り合い)のお子さん(次男坊)もまた、こうした記憶を持っていたらしく、言葉が話せるようになるとこう言ったそうです。「僕は誰のおなかに入ろうか考えていた。そうしたらパパとママを見つけ、すごく優しそうだったんで、選んできたんだよ」って。

たしかにこうしたことには疑問を持つ人も多いかもしれません。しかし、たとえどんな親や環境に生まれついたとしても、それを「産んでと頼んで産んでもらったんじゃない」と拒絶するのではなく、「私は、願ってこの親と環境のもとに生まれてきたんだ」ととらえることはとても大切なことだと思います。そしてそれは、こう思ったからどうなるとか、それは客観的に証明可能であるというものでは決してなく、自分の決断でそう思い定めてその人生を生きていくという倫理的かつ実践的なものであることはいうまでもありません。

夏目漱石『こころ』(岩波文庫)

下で取り上げた『必読書150』では、漱石の『猫』が取り上げられていますが、漱石の場合どれが取り上げられてもおかしくないほど水準の高い作品がずらっと並んでいます。以前は「何を読んだらいいでしょう?」と訊かれると、私は「漱石と鴎外を読んでおけばいい」と答えていました。あれこれ挙げるのが面倒くさかったというのが理由の大半ですが、まずはクリアーしておかなければならないレベルだからでもあります。

『こころ』は教科書で取り上げられる機会も多く、もうご存じの人は多いとは思いますが簡単にあらすじを説明します。この小説は前半と後半、あるいは上中下に大きく分かれていて、前半で「私」という学生が「先生」に鎌倉で出会い、訳も分からず心惹かれていくところです。しかし、先生には謎が多くそれが解明できぬまま「私」の故郷で父親が危篤になり、帰省して看病をするが、父親が死ぬ。その葬儀で追われているときに、先生が死ぬ。後半では葬儀も放り出して東京に戻ってくる道すがら、先生から私に宛てられた遺書という形で先生の半生が語られています。

先生はひどい叔父の裏切りで親の財産を取られてしまい、人間不信になっているところに下宿の「奥さん」「お嬢さん」と出会い癒される。先生にはKという友人がいた。生来禁欲的で理想主義的な男だったが、彼が経済的に困っていたために先生は同じ下宿を紹介する。こうして「先生」「K」「お嬢さん」の間で三角関係が始まるのだが、ある時Kが先生に「お嬢さんへの恋心」をうち明ける。しかし先生もまたお嬢さんを愛していたことに自ら気づいてしまい、先手を打って求婚し成功する。しかしそれを知ったKは自殺をするわけです。
その後先生と「お嬢さん」は結婚し「お嬢さん」は「奥さん」となるわけですが奥さんにはうち明けられない問題(つまりKの自殺の原因)で先生は煩悶(はんもん)する。そのころ明治天皇が死に話のきっかけから「殉死」という言葉が話題にでる。やがて実際に乃木将軍が殉死したことを知り自殺を決意し遺書として「私」という学生に送ったのがその手紙であった。これがあらすじです。

この「岩波文庫」版のあとがきで「『こころ』は読むたびに違った面が、そしてそれは現在の自身を反映している面が心に残る(大意)」と書かれています。私自身、最初に読んだときは中学生だったこともあり、Kの自殺の場面の凄惨さしか覚えていませんでした。大学生になって読んだときは帰省中の「私」が親と気まずくなる場面が鮮烈に身につまされました。(学生というのは常に「外部」に出ようとする運動を絶え間なく行っているため、親の「内部」とコンフリクトを起こしてしまうわけですね。)最近では、先生がお嬢さんを愛するようになった下りにいろいろなことを感じています。

柄谷は『漱石論集成』のなかで次のように述べています。「先生がお嬢さんを愛するようになったのはKが同居するようになってからです。というより、Kがお嬢さんを愛するようになったからですね(中略)Kが介在することによって、はじめて恋愛が成立したのです。すると、愛を意識した時は、すでにKを犠牲にしなければならない立場にあったのです。たんに三角関係における苦悩なのではありません。「愛」そのものが、三角関係によって形成されたのですから。」ここから柄谷はヘーゲルの欲望論へと話をすすめます。つまり「欲望とは他者の承認(認めてもらうこと、うらやましがられること)への欲望」なのであるから、「人を愛する」という欲望は、実にその人を所有することで他者から認められることへの欲望だということになるのです。こうして恋愛が成立する以上、恋愛とは必然的に「三角関係」を内在していることになります(特定の女性や男性が関係していなくとも「この人と一緒になれば人もうらやむ」という感情を指します)

子供はなぜポケモンが好きなのでしょうか?みんなが好きだからです。

なぜ女子中高生はアイドルに群がるのでしょう?みんなが群がっているからです。

欲望というのは常にそうした形式を取ります。

さらに貧富の格差が広まるということは、他者にうらやましがられる人々とそうなりたいのにそうなれずに怨嗟の念を心にため込む人々とを強烈に分けてしまう社会になるということです。この傾向が確実ならば、それをどうやって人は乗り越えていくのでしょうか?この本を読みながら、そんなことを考えています。