Words, words, words. (Hamlet. 2. 2. 194)
「殿下、何をお読みで?」
佯狂ではないかと探りに来たポローニアスの質問に対するハムレットの人を食ったような返答である。「言葉、言葉、言葉」しかし人は言葉なしでは生きていけない。言葉を通じて世界を認識し、世界とかかわっていく。昨年暮のNHKスペシャルでリチャード・ドーキンスは「言葉(声)は第二の遺伝子である」と言っていた。人間を進化ヘ導くのも言葉なら、逆に懐疑の夢や破滅の淵へ誘うのも言葉なのである。
The Vulgar thus through Imitation err;
As oft the Learn'd by being Singular.
(Pope: Essay on Criticism, 424-425)
(一般の俗衆はこうした模倣によって誤るのにたいし、学あるものは性狷介であるために誤ることが多い)
ポウプは『批評論』の第2部でわれわれの正しい判断を妨げている原因として人間の持つ種々の弱点を取り上げているが、上記の部分は「学あるもの(Learn'd)」が判断を誤る理由として「狷介孤高(Singular)」である事を挙げている。そしてポウプは次のように続ける:
So much they scorn the Crowd, that if the Throng
By Chance go right, they purposely go wrong;
So Schismatics the plain Believers quit,
And are but damn'd for having too much Wit. (426-429)(彼らは大衆を非常に軽蔑しているので、たまたまであれ群集が正しい方向に行くと、わざと間違った方向に自分たちは進む。ちょうど教会分離派の人々が平信徒から離れてしまい結局は知識の持ち過ぎで破滅するのと同じように。)ポピュリズムという一語で人々に歓迎される意見を批判する知識人は多い。しかし、そのとき「自分は大衆とは一線を画す知識人である」という鼻持ちならない自意識が、心の底で蠢いていないだろうか?
パソコンで打ってメールで送信。いまではこれが普通ですよね。
ペンを持つときといえばちょっとした書類にサインするときか、手帳に記入するときぐらいでしょうか?そんなときでも万年筆は仰々しいとボールペンやサインペンで書くことの方が多いですよね。
でも、万年筆もいいもんですよ。保存用のノート作りに使ったり、ブレインストーミングに使ったり、年賀状や手紙、日記を書くのに使ったり。転義的にあまり力を入れて書かなくてもよいものに、字義的に力を入れずに書くためのツールが万年筆です。

上の写真はMontblanc 146 原稿用紙を書くときに使うペンです。
『成長するティップス先生』を読むと、ノートは毎年更新したほうがいいと書いてありますが、ものぐさな私としてはせめて3年ぐらいはそのまま使わせてくださいと懇願したくなります。

ノートを作成する(ここでいうノートとは、教員が授業に持ち込むあのノートです。学生が板書などを写すノートについてはまたいずれ書こうと思っています)場合に適した万年筆は、一般的なノートの罫の太さを考えるとやはり細字(fine)であるように思います。また私の場合、意識して治そうとは思っているのですが、小さい字を書きつづけるとどうしてもペンを捏ねてしまう癖があるので小ぶりのものが合っています。使用インクはパーマネント・ブルーブラック。現在売られているものだとモンブラン・ペリカン・ラミーなどがそのグループでしょうか、もちろんボトルインクです。理由は見なおしたり、何度もめくっている時に汗や水がたれると、パーマネントインク以外は滲んでしまうからです。
上の写真は Pelikan M400 。私がノート作りする際に用いるペンです。小ぶりで吸入できるインクの量が少ないのですが、パーマネントインクのように少し扱いが面倒なインクの場合それが利点となって、こまめに洗浄することが出来るわけです。手帳などにもこれを使っています。ペンハウスという筆記具専門のネットショップで購入しました。
It will come
Humanity must perforce prey on itself,
Like monsters of the deep.
(King Lear. 4. 2. 48-50)
(きっと来る
まるで深海に棲む化け物のように
人間が人間を餌食にする時が。)
嫁ゴネリルのリア王に対する非道を叱って、夫オルバニー公が述べる台詞である。お前たちのような非道を天が懲らしめなければ「きっとこんな時代が来る」と言っているわけだ。これは当時の状況にも当てはまっていたであろうし、現代にも当てはまる事態である。だが、ここでも間接的にほのめかされているように、現実の不条理さを説き起こすのに、あたかもそれ以前はもっとよい時代であったかのように示されるのは、実は私たちがいま望んでいる理念や規範を一方的に過去の中に読みこんで物語化しているに過ぎない、という点にも注意しなくてはいけない。でないと、本当に深海に棲む化け物のような者達の餌食になってしまうかもしれない。
juggler555jpさんのブログでも紹介されている満寿屋の原稿用紙を私も使っています。とはいえ、いまどき原稿用紙で書いたものを提出しろなんて言って来る所もないので、主に手紙の便箋代わりにしたり、ブレインストーミングに使っています。
作家の自筆原稿を見るのも好きで先日は吉川英治記念館に行った折、彼の自筆原稿を見る事が出来ましたが、きれいでしたね。私も字は下手なほうではないのですが(デジカメがなくアップロードできないのをいい事に放言していますが・・・)原稿用紙200字、あるいは400字を埋め終わった後でみると、ものすごくバランスが悪い。一文字一文字は私のほうが丁寧に書いているはずなのに、遠目で見ると変なデザインに見える。それに比べて作家さんの自筆原稿は一文字一文字は殴り書きに近いようなのもあるのに、遠目で見るとバランスがとれている。原稿用紙慣れしているというか、万年筆慣れしているんでしょう。自筆原稿を特集した作家と万年筆のページなど見てもその感を強くします。
それで思い出した事ですが、以前『ジャズライフ』で佐藤允彦が次のようなことを書いていました。
「(オーケストラの細かいスコアを書いていて)音の厚いところは当然音符が多くなる。たとえば主旋律、対旋律、ベースラインという三つの動きを全段に書きこんだところを少し遠くから眺めると、三種類の線がないまぜになったタペストリーのようである。『お、なかなか美しいではないか。ちょっと右上のほうが薄いかな。なにか一筆加えたほうが良いかな』と思わず画家の目になっていたりする・・・オーケストレーションという作業は、大きな画布を細い筆で埋めて行く日本画とか、九谷焼や友禅の細密な絵付け、彫金などに似ているのではないだろうか、とさえ思うのだ。」
ひょっとすると作家たちも、同時に造形芸術家の目を持って原稿を書いて(描いて)いるのかもしれないと思ったりします。
Our doubts are traitors,
And make us lose the good we oft might win
by fearing to attempt.
(Measure for Measure. 1. 4. 77-79)
(とうてい無理だという疑いこそ裏切り者なのです。
やってみることを恐れさせて、手に入るかもしれないものまで
失わせてしまうのです)
擬人法(personification)は一般に命を失った比喩であることが多いが、この『尺には尺を』のなにげない擬人法はどうだろう?特に鮮烈なイメジをともなっているわけでもないのに、この擬人法(疑念は裏切り者)のせいで「疑念」が自分でコントロールできる心の作用などではなく、あたかも私たちをコントロールしようと反乱を起こし策略をし掛けてくる他者として立ち現れているではないか。そして事実、疑念は自分でコントロールできるような生易しいものではないのだと思う。この「疑念」は後に「嫉妬」と手を携えて『オセロ』の中で自律的に暴れまわる。
万年筆のペン先に「ミュージック」というのがあります。横に平べったくなっていて、縦に引く線は極太に、横に引く線は細く書ける仕様になっています。
これをそのまま使うのではなく、ペンを真横に持って縦の線を細く、横の線を太くするようにして書くときれいな楽譜が描けるのです。
ところでこの写譜用のペンは実に高い。いや、万年筆としてはそんなに高くないんですが、ロープでもなければ年がら年中写譜しているわけでもない人間にとって、そんなたまにしか使わないものに一万や二万も出すなんてもったいないって気持ちが先立つわけなんですよね。そんな折、たまたま友人からなぜか分からないけれどカリグラフィー用のペンをもらったわけです。シェーファー製。これがまさに縦に太く横に細いミュージックペンと同じペン先である事に気付いたんです。

上の写真はそのシェーファーカリグラフィーペンです。なんではじめっからそこに気付かなかったのかいま考えると不思議な気もしますが、その頃は「ミュージックペン」という事にこだわっていて、頭の中でカリグラフィーとまったくリンクしていなかったんだと思います。ちなみにこのペンセットにはカリグラフィー教則のリーフレットもついていました。
Bassanio: Do all men kill the things they do not love?
Shylock: Hates any man the thing he would not kill?
(The Merchant of Venice. 4. 1. 66-67)
「気に入らないから殺す、それが人間か?」と問いただすバッサーニオに対して「憎けりゃ殺す、それが人間だ」と言いはなつシャイロック。『ヴェニスの商人』のあまりにも有名な場面である。この交差法(chiasmus)は日本語に直訳するとかえって不自然になるせいか、小田島・福田訳とも平行法(parallelism)を用いている。
一体この一節にどれほどの人間が解説を加えているだろう?ある人は言う:「シャイロックは正しい、それが人間の本性だ」。また別の人は言う、「憎けりゃ殺す、それは人間だけだ。動物は憎しみから殺したりはしない。人間は本能が壊れているんだ」云々。もう、そういう議論はお腹一杯である。そうしたニヒリスティックな、あるいはペシミスティックな身振りは、虚無的・悲観的な事態を達観して受け入れられる自己の優越性を誇示しているに過ぎないのだから。
人間だからこそ、同時にバッサーニオのような問いを立てる事が出来る。「憎けりゃ殺す」のも人間なら、それに異議を申し立てる事が出来るのもやはり人間だけなのだ。したがってこの問答は徹底して人間の内側の戦いを描いているのであり、獣より下だとか、本能が壊れているとかいったようなのんきな事態ではないのである。
Knowledge is of two kinds. We know a subject ourselves,
or we know where we can find information upon it.
--- Samuel Johnson (Boswell's Life of Johnson)
(知識には2種類ある。ある主題について私たち自身で知っている事とその情報はどこで見つける事が出来るかを知っている事だ)
ボズウェル『サミュエル・ジョンソン伝』の有名な一節は、さらにこう続く:When we enquire into any subject, the first thing we have to do is to know what books have treated of it. This leads us to look at catalogues, and at the backs of books in libraries.(私たちが何かのテーマを調べようとする時、最初にすべき事はどの書物がそれを扱っているかを知る事である。そういうわけで、私たちはカタログや図書室に並ぶ本の背表紙をながめるのだ。)図書室で本のほうへすっ飛んでいき、熱心に背表紙を眺め始めたジョンソン博士が「そんなに背表紙がお好きとは妙な癖もあったもんですね」と言われて、即座に返した寸鉄がこれだ。パソコンを見るとすっ飛んでいき、その前に何時間でも座っている人が「ネット中毒ですね」と非難されたらこう言い返せばいいというお手本である。ネットはたしかに、図書館やカタログよりもさらに調べやすいツールである。いわば2番目の知識をどこまでも簡易化、標準化しようというエートスが端的に具現化したようなものである。もはや誰でも、調べたい事を即座に調べる事が出来るようになっている。あとは「何を調べるべきか」という倫理的問題だけが残されているだけかもしれない。
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