Pelikan NYC

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つい最近までPelikan社では「都市シリーズ」という限定万年筆を出していた(最新作はPiazza Navonaというローマの観光名所に因んだ商品となり、「都市シリーズ」から「名所シリーズ」に変わってしまったようである)。ベルリンから始まってストックホルム、マドリッド等々続き、打ち止めは上海となった。個人的には「限定品」などにはとても「強くて」あまり心動かされないのであるが、いずれ「ロンドン」や「ニューヨーク」あるいは「ストラットフォード・アポン・エイヴォン」が出たら買ってみようぐらいに思っていた。結局「ストラットフォード」は当然として「ロンドン」も出ずじまいであったので、「ニューヨーク」のみを購入したのだが、これが質感の低いこと夥しい。シリーズ通してもっとも安っぽく見える。
安っぽく見える原因はその「ウシ」というか「ゲートウェイ」のようなデザインのせいでであるが、一つには(こう言っては悪いけれど)「トンボ・モノボール」と類似している点がある。以前ボールペンのところで書いたように、私は学生時代を通してずっと水性ペンを使用していたのであるが、それはこのモノボールであった。書きやすさは抜群なのだが、使っているうちに白い表面塗装が剥げてきて「まだら」になる。そうなった時の姿が「ペリカン・ニューヨーク」にクリソツなのだ。
ということで後悔しているかというとそうではない。質感のなさが幸いしてガシガシ使う事ができる。ペン先はF。インクはトンボ・モノボールの青によく似てくっきりとした「オマス・ローマンブルー」という妙に値段の高いインクを入れている。これで書くと字が一段上手になったような気分になれるという魔法のインクである(笑)。そして馴染んでくると、「剥げたモノボール」のようなこの万年筆が実に渋くよく出来たデザインであるように思えてくるから不思議だ。

限定品ではあるがあまり売れなかったのか、今でもたまに売られているペンである。

無根拠なオレンジ

本州太平洋側の人間は鮮やかな緑を好み、さらに九州や沖縄になるとオレンジや赤を好むようになると昔なにかの話に聞いた。太陽光線の強さと、その地域の人々が好む色には相関関係があるという話だ。私は最近とみに「オレンジ色」に惹かれるようになって困っている。オレンジ熱といってもいい。なぜ困っているかというと「いまさらオレンジ色って歳でもあるまい」という色と年齢との間の無根拠な思いこみが原因である。根拠がある思いこみというのは、その根拠を検証し批判すれば思いこみ本体も解消されるから大して困らないのであるが、無根拠の思いこみというのはあらゆるところから根拠を引っ張って来たりしてなかなか無くならない。これは無根拠な差別や偏見は、無根拠であるがゆえに却って強力である事からも分かるが、ここはそういう大切でムズカシイことはちょっとおいといて次に進む。
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数年前に「ロディア」(上の写真)を買ったのがオレンジ熱の始まりであった。当時、「大人といえば黒革でしょう?」と無根拠に思っていたのだが、この黒革製品の間にオレンジのロディアが挟まると鮮烈な存在感を発揮した。これが始まりとなり、電子辞書のケースもオレンジ、ペンも以前紹介した「bicオレンジ」やカラン・ダッシュの100円ボールペン、ついにはクレールフォンテーヌのノート、そしてラミーサファリ限定色(オレンジ)なんていう商品まで買うにいたった。仕事で使うテクストも内容ではなく表紙がオレンジ色であるかで決めた(のは嘘)。しかし、そうしてオレンジで固めてしまうと、結局オレンジの鮮烈さはすっかり失せてしまい、凡庸な色合いに見えてくるのである。この辺に人間の慣れのイヤラシサというか、どうして人は物を買いつづけ(させられ)るのかという問題が垣間見える。
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いまもっとも欲しいと思っているオレンジ色の商品はデルタというペンメーカーの「ドルチェヴィータ」という万年筆である(上の写真)。これ一本さえあればうちの机の上も見違えるほど華やぐのに買えずに困っている。なぜ困っているかというと「お金が無い」という揺るがしがたい根拠があるからである。

ところで、私のオレンジ熱が発症したのはいまから数年前、ちょうど温暖化が騒がれだし、事実東京の夏が非常に暑くなりだした頃である。これはいままで九州沖縄で好まれるとされていた「色の緯度」が上がりだした証拠である、というのが無根拠な思い込みならよいのだけれど。

アメリカの匂いのするノート

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学生時代、アメリカ帰りの子に「ミードノート」をもらうことがよくあった。紙質は最悪、万年筆や水性ペンで書いたら確実に裏抜けするシロモノだった。かといって鉛筆で書いてもあまり乗りが良くなくてどうにも使いでがよくなかった。作りも粗雑で、いかにも「アメリカ製!」って感じである(これが一種のステレオタイプだったという事は後に知る)。しかし、短期留学の帰国シーズンになったりするとこれを10冊近く貰ってしまう訳だ。おそらく値段が安く、アメリカ感が強いからだったのだろう、どの子も買ってきてたりした。しかも1冊に紙が120枚とか180枚とか使われているから1冊で1年分のノートになりそうな勢いなのだ。しかし、裏抜けするし鉛筆の乗りが悪い。
結局これらのノートは仕方なく片面使用で水性ペンを使ってブレインストーミングやペーパーのドラフト書きなどに使う事にした。ところがいざ使ってみると結構重宝するものなのだ。いま言ったように紙質、作りとも悪いのだが、そのたたずまいのせいで間違いなど気にせず、どんどん書いていく事ができる。またプリンとした高級な紙質のノートよりも心なしかめくるのが苦にならないし、ページを改めても気持ちが改まったりしないから、かえってアイデアが途切れずに書きつづけられる。振りかえって見れば、授業のペーパーどころか卒論の下書きにもこれが活躍していた。まだパソコンがそれほど普及してなく、ワープロは「清書用」と思われていた頃の話ではある。以前引っ越したときにまとめて捨ててしまったが、今残っていれば・・・・・やはりいつ処分しようか考えている事だろう(笑)

現在ではソニプラなどで気軽に手に入るがあまり使ってはいない。一昨年買った1冊がまだ半分以上残っている。

ボールペンはややこしい

油性ボールペン
bic orange
私がボールペンを使い始めた頃は、おそらく「油性ボールペン」しかなかったように思う。なぜか分からないけれど、「鉛筆よりボールペンのほうが大人だ」と思っていたので、高校に入るとすぐにボールペンを使い始めた。しかし油性ボールペンというのは、急にむっつりと黙り込んだように書けなくなることがあり困った。「お湯につけるといい」という人がいて、試してみたがダメ。ある人は「先っぽを炙ると出てくる」などと炙り出しみたいなことを教えてくれたが、加減が分からずに焦がしてしまう。勉強机の引出しにはこうしたボールペンの残骸がゴロゴロと転がっていた。たまに、ボールペンのインクの中に空気が入って分離しているのがあったけれど、あれは空気のところまで行くとどうなるんでしょう?試した事はないけれど。そんな中でも、上の写真にある「ビックボールペン」はあまり黙り込む事もなくなめらかに書けたのだが、ペン立てに逆さに入れておくとダラーンとインクが漏れてきて他のペンにまで被害を及ぼした(いまはそんな事もないでしょうが)。

水性ボールペン
tombow mono
その後、水性ボールペンというのが現れた。これは軸の中でサラサラのインクがチャポンチャポンしているのが覗けて、「これなら頑固者のように途中でむっつりする事もなく、最後まで書けるだろう」と期待させてくれた。たしかに油性ボールペンのように途中で書けなくなる事はなかった。また水性というと万年筆のインクのようであるが、どういう仕組みか分からないけれど水で流れる事もない。けれど、その頃はまだ「わら半紙」が普通に使われていたので、このわら半紙に水性ペンで書くと、「ワッ」というかんじでにじむ。おまけに裏に抜けている。また教科書の紙質も悪かったから、これにも使えない。そんなわけで油性ボールペンや鉛筆と併用していた。あと、夏の暑いときに胸ポケットに入れておいてドボドボとインクが噴き出した事があってワイシャツに被害を及ぼした(いまはそんな事もないでしょうが)。

ゲルペン
mitsubishi signo
最後に登場したのが「ゲルボールペン」。インクの発色や書きやすさは水性ペンのようでありながら、わら半紙や教科書に使っても滲まずとても使いやすいペンである。私がよく使うのは「三菱シグノ」。ただ最近このゲルペンにも疑問を持っている。ゲルペンそのものというより新製品の発売に。というのも、どうも極細競争にまい進しているフシがあるのだ。文房具店を覗くと「最新超極細!」と銘打って各メーカーがしのぎどころかペン先まで削っている。0.3なんて当たり前、0.28だ0.25だとユーザーそっちのけで極細の限界に挑戦しているような風情だ。0.18なんてのまで出た・・・おまけに、そうした商品が幅を利かせていて、私の探す0.7なんかは時代遅れだとばかり隅っこのほうに追いやられている。そのむかし、CDの登場でコンパクト化が可能になったオーディオ業界が、果てしない小型化競争に突入して結局はユーザーからそっぽを向かれた事を思い出す。「縮み」志向の日本人はいまでも健在なようだ。

Knowledge is of two kinds.

Knowledge is of two kinds. We know a subject ourselves,
or we know where we can find information upon it.
--- Samuel Johnson (Boswell's Life of Johnson)
(知識には2種類ある。ある主題について私たち自身で知っている事とその情報はどこで見つける事が出来るかを知っている事だ)
ボズウェル『サミュエル・ジョンソン伝』の有名な一節は、さらにこう続く:When we enquire into any subject, the first thing we have to do is to know what books have treated of it. This leads us to look at catalogues, and at the backs of books in libraries.(私たちが何かのテーマを調べようとする時、最初にすべき事はどの書物がそれを扱っているかを知る事である。そういうわけで、私たちはカタログや図書室に並ぶ本の背表紙をながめるのだ。)図書室で本のほうへすっ飛んでいき、熱心に背表紙を眺め始めたジョンソン博士が「そんなに背表紙がお好きとは妙な癖もあったもんですね」と言われて、即座に返した寸鉄がこれだ。パソコンを見るとすっ飛んでいき、その前に何時間でも座っている人が「ネット中毒ですね」と非難されたらこう言い返せばいいというお手本である。ネットはたしかに、図書館やカタログよりもさらに調べやすいツールである。いわば2番目の知識をどこまでも簡易化、標準化しようというエートスが端的に具現化したようなものである。もはや誰でも、調べたい事を即座に調べる事が出来るようになっている。あとは「何を調べるべきか」という倫理的問題だけが残されているだけかもしれない。

Hates any man the thing he would not kill?

Bassanio: Do all men kill the things they do not love?
Shylock: Hates any man the thing he would not kill?
          (The Merchant of Venice. 4. 1. 66-67)
「気に入らないから殺す、それが人間か?」と問いただすバッサーニオに対して「憎けりゃ殺す、それが人間だ」と言いはなつシャイロック。『ヴェニスの商人』のあまりにも有名な場面である。この交差法(chiasmus)は日本語に直訳するとかえって不自然になるせいか、小田島・福田訳とも平行法(parallelism)を用いている。

一体この一節にどれほどの人間が解説を加えているだろう?ある人は言う:「シャイロックは正しい、それが人間の本性だ」。また別の人は言う、「憎けりゃ殺す、それは人間だけだ。動物は憎しみから殺したりはしない。人間は本能が壊れているんだ」云々。もう、そういう議論はお腹一杯である。そうしたニヒリスティックな、あるいはペシミスティックな身振りは、虚無的・悲観的な事態を達観して受け入れられる自己の優越性を誇示しているに過ぎないのだから。
人間だからこそ、同時にバッサーニオのような問いを立てる事が出来る。「憎けりゃ殺す」のも人間なら、それに異議を申し立てる事が出来るのもやはり人間だけなのだ。したがってこの問答は徹底して人間の内側の戦いを描いているのであり、獣より下だとか、本能が壊れているとかいったようなのんきな事態ではないのである。

写譜用のペン

万年筆のペン先に「ミュージック」というのがあります。横に平べったくなっていて、縦に引く線は極太に、横に引く線は細く書ける仕様になっています。
これをそのまま使うのではなく、ペンを真横に持って縦の線を細く、横の線を太くするようにして書くときれいな楽譜が描けるのです。

ところでこの写譜用のペンは実に高い。いや、万年筆としてはそんなに高くないんですが、ロープでもなければ年がら年中写譜しているわけでもない人間にとって、そんなたまにしか使わないものに一万や二万も出すなんてもったいないって気持ちが先立つわけなんですよね。そんな折、たまたま友人からなぜか分からないけれどカリグラフィー用のペンをもらったわけです。シェーファー製。これがまさに縦に太く横に細いミュージックペンと同じペン先である事に気付いたんです。

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上の写真はそのシェーファーカリグラフィーペンです。なんではじめっからそこに気付かなかったのかいま考えると不思議な気もしますが、その頃は「ミュージックペン」という事にこだわっていて、頭の中でカリグラフィーとまったくリンクしていなかったんだと思います。ちなみにこのペンセットにはカリグラフィー教則のリーフレットもついていました。

Our doubts are traitors

        Our doubts are traitors,
And make us lose the good we oft might win
by fearing to attempt.
            (Measure for Measure. 1. 4. 77-79)
      (とうてい無理だという疑いこそ裏切り者なのです。
やってみることを恐れさせて、手に入るかもしれないものまで
失わせてしまうのです)

擬人法(personification)は一般に命を失った比喩であることが多いが、この『尺には尺を』のなにげない擬人法はどうだろう?特に鮮烈なイメジをともなっているわけでもないのに、この擬人法(疑念は裏切り者)のせいで「疑念」が自分でコントロールできる心の作用などではなく、あたかも私たちをコントロールしようと反乱を起こし策略をし掛けてくる他者として立ち現れているではないか。そして事実、疑念は自分でコントロールできるような生易しいものではないのだと思う。この「疑念」は後に「嫉妬」と手を携えて『オセロ』の中で自律的に暴れまわる。

原稿用紙

juggler555jpさんのブログでも紹介されている満寿屋の原稿用紙を私も使っています。とはいえ、いまどき原稿用紙で書いたものを提出しろなんて言って来る所もないので、主に手紙の便箋代わりにしたり、ブレインストーミングに使っています。
作家の自筆原稿を見るのも好きで先日は吉川英治記念館に行った折、彼の自筆原稿を見る事が出来ましたが、きれいでしたね。私も字は下手なほうではないのですが(デジカメがなくアップロードできないのをいい事に放言していますが・・・)原稿用紙200字、あるいは400字を埋め終わった後でみると、ものすごくバランスが悪い。一文字一文字は私のほうが丁寧に書いているはずなのに、遠目で見ると変なデザインに見える。それに比べて作家さんの自筆原稿は一文字一文字は殴り書きに近いようなのもあるのに、遠目で見るとバランスがとれている。原稿用紙慣れしているというか、万年筆慣れしているんでしょう。自筆原稿を特集した作家と万年筆のページなど見てもその感を強くします。

それで思い出した事ですが、以前『ジャズライフ』で佐藤允彦が次のようなことを書いていました。
「(オーケストラの細かいスコアを書いていて)音の厚いところは当然音符が多くなる。たとえば主旋律、対旋律、ベースラインという三つの動きを全段に書きこんだところを少し遠くから眺めると、三種類の線がないまぜになったタペストリーのようである。『お、なかなか美しいではないか。ちょっと右上のほうが薄いかな。なにか一筆加えたほうが良いかな』と思わず画家の目になっていたりする・・・オーケストレーションという作業は、大きな画布を細い筆で埋めて行く日本画とか、九谷焼や友禅の細密な絵付け、彫金などに似ているのではないだろうか、とさえ思うのだ。」

ひょっとすると作家たちも、同時に造形芸術家の目を持って原稿を書いて(描いて)いるのかもしれないと思ったりします。

It will come

It will come
Humanity must perforce prey on itself,
Like monsters of the deep.
           (King Lear. 4. 2. 48-50)
(きっと来る
まるで深海に棲む化け物のように
人間が人間を餌食にする時が。)

嫁ゴネリルのリア王に対する非道を叱って、夫オルバニー公が述べる台詞である。お前たちのような非道を天が懲らしめなければ「きっとこんな時代が来る」と言っているわけだ。これは当時の状況にも当てはまっていたであろうし、現代にも当てはまる事態である。だが、ここでも間接的にほのめかされているように、現実の不条理さを説き起こすのに、あたかもそれ以前はもっとよい時代であったかのように示されるのは、実は私たちがいま望んでいる理念や規範を一方的に過去の中に読みこんで物語化しているに過ぎない、という点にも注意しなくてはいけない。でないと、本当に深海に棲む化け物のような者達の餌食になってしまうかもしれない。