the bridge I crossed

The bridge of Cherokee, that's the bridge I crossed. . . .
                        (Bird)
(俺が渡ったのは、チェロキーのブリッジ(橋)だった)

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映画『バード』の中で、パーカーはバップのアイデアが実現したときの瞬間をこのように語る。ブリッジに二重の意味(「橋」と曲の「Bメロ、サビ」」)をかけている所が洒落(word play)になっているわけだ。
しかし、これは創作ではないだろうか?よく引用されるのは、以下のようなもっと「散文的」なインタビューである。
I kept thinking there's bound to be something else…. I could hear it sometimes, but I couldn't play it. Well, that night I was working over "Cherokee," and as I did I found that by using the higher intervals of a chord as a melody line and backing them with appropriately related changes, I could play the thing I’d been hearing. I came alive
(もっとなにか別の方法があるのだと、ずっと考えていた。その何かとは、時折聞こえてはいたけれどまったく演奏できないものだった。その晩、俺は「チェロキー」をやっていて、コードの上のほうの音をメロディーラインに用いて、それに沿った関係コードでバッキングする事を思いついた、するとずっと頭の中で聞こえてきたものを音に出す事が出来たんだ。それで俺は生き返った)。

もちろん映画の事だから脚色もあるだろうし、鮮烈な表現という点なら「ブリッジを渡る」ほうがすぐれていると思う。

でもその一方で、この映画ではパーカーがロックンロールを低い音楽として見下しているかのようなシーン(「なんでB♭だけなんだ!?」)があるが、現実のパーカーはどうだったんだろう?

They teach you there's a boundary line to music. But, man, there's no boundary line to art.
(音楽には境界線があるとよく言われる。でもな、芸術には境界線がないんだよ)

Our knowledge has made us cynical

We have developed speed, but we have shut ourselves in.
Machinery that gives abundance has left us in want.
Our knowledge has made us cynical; our cleverness, hard and unkind.
We think too much and feel too little.
--Chaplin. The Great Dictator.
(私たちはスピードを発達させてきたが、かえってその中に自らを閉じ込めてしまった。
豊かさをもたらしてくれる機械が私たちを欠乏に突き落としている。
知識のために私たちは皮肉屋になり、利口になった分、非情で冷酷になっている。
私たちは考えすぎて感じることがあまりに少ない。)

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チャップリンの映画『独裁者 』の最後の演説の一部である。こういった対照法(antithesis)はポウプに頼めば手際よく処理してくれるかもしれないが、それではこの表現の直接性が失われるかもしれない。
初上映から65年。まったく色褪せていないことにむしろ驚かされる。いや、ますます現実味、そして凄みすら帯びてきている。いまこそ、チャップリンなのではないだろうか。

いまいちブログの調子がよくない・・・

どういうわけか、新しい記事を投稿すると前の記事がランダムに消えてゆく現象が起こる。仕方がないので、いったん全エントリーを書き出して消去し、再び読み込みをおこなった。どうなったかはいまいち分からないが、タグが全部文字変換されてしまい、みっともないこと夥しい。こつこつ直すが手が回りきらず、あきらめて日記を書いている。

ブログを変更しました

ブログを変更しました。
一見するとデザインを変更しただけのように見えるかもしれないですが、実はブログのスクリプトそのものをホストサーバーに置くようにしました。いま流行のMovable Typeというソフトです。私も詳しいことはよくわからないのですが、マニュアルどおりインストールしていったら、何とか使えるようになりました。これまではどこのブログが一番使いやすいか試していましたが、Yahooは夜になると絶望的に重くなるし(最近のことです、一説には青木さやかの「ブログタイプ」というお笑い番組の影響だといわれています)、ライブドアはどういうわけか「著作権」がライブドアのものになるという規定があるようなので忌避しました。これまで使っていたのはアーカイブをホストに置けるblogger(googleのblogサービス)でしたが、ここは記事を書くための「ダッシュボード」というのがいやになるほど遅かった。もちろん、あらかじめエディターなどで書いてからコピー&ペーストしているのですが、ちょっとしたところを手直ししようと思うと大変なことになりました(笑)。
ライブドアにあってブロガーにはなかった、「カテゴリー」機能も装備されています。ブロガーにはこの機能がなかったために、授業の告知を書いた後、何か記事を追記すると、学生さんが見づらいんじゃないかと思って控えていました。授業のカテゴリーはclassです。
デザインも、かなり細かくいじれる(というかほぼ一から書き上げられる)ため、ウェブサイトと統一感をもたせてみました。かえって見づらい、うちのパソコンじゃがたがたのデザインになるなどご意見、ご質問があったらメールでお知らせください

All the world's a stage

All the world's a stage,
And all the men and women merely players.
They have their exits and their entrances,
And one man in his time plays many parts,
His acts being seven ages.
--As You Like It (II, vii, 139-143)
(この世界はすべてこれ1つの舞台
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる、
年齢によって7幕に分かれているのだ。)

放蕩者のジェークイズが哲学者に変わる瞬間である。ここにはマクベスの"walking shadow, a poor player"のような暗い影は差していないが、それでもこれに続く台詞はリアリスティックで非情だ。結構長いのでここには引用しないが興味のある人は原作を読むとよいだろう。

この「世界は舞台」「私たちは役者」という思想は、生命や人生をメタな視点から見つめる足場を提供してくれる。しかし、この足場はあくまで倫理的なものであり、上のような考え方をすれば誰でも獲得できるような生易しいものではない。私の尊敬する詩人がかつてこう歌った。「君よ一生を劇の如く」。劇のような一生を送り、送りながらそれを劇であると理解して悠々と見下ろせる足場、これは実践的にしか獲得し得ないものだ。

The wrinkled sea beneath him crawls

He claps the crag with crooked hands,
Close to the sun in lonely lands,
Ring'd with the azure world, he stands.

The wrinkled sea beneath him crawls,
He watches from his mountain walls,
And like a thunderbolt he falls.
           (Tennyson; The Eagle)
(彼は絶壁の岩を、鍵爪のついた手でがっちりと掴んでいる。
孤独な島々において太陽のちかく
蒼穹の世界に取り巻かれながら、彼は佇む。

眼下には皺うつ波が這っている、
彼は崖の頂きからそれを眺め、
雷斧の如き速さで急降下する。)

テニソンの詩「鷲」である。この詩は良い悪い以前に詩の教科書にうってつけの諸要素を備えている。一部で破格するものの全体が「弱強格四音歩(iambic tetrametre)」の三行連(triplet)であること、冒頭の音の様子がごつごつした岩場を表すような音であり、いわゆる音象徴の性質が強いことなど。しかしとりわけ私が注目しているのは「眼下には皺うつ波が這っている」という四行目である。

私の尊敬する桂冠詩人がかつてこう言った:「詩とは分析に対する総合であり、いままで出会いもしなかったような言葉がそこではじめて出会う」と。「皺(wrinkle)」と「海(sea)」、そして「這う(crawl)」という語は一緒に使われる機会の少ない語で、おそらくここで初めて出会ったのであろう。だがどうだろう、鷲の視点から見れば眼下の海は波打つのではなく皺がよって這っているように見えるのではないか。

Cowards die many times before their deaths

Cowards die many times before their deaths,
The valiant never taste of death but once.
--Julius Caesar (II, ii, 32-37)
(臆病者は死ぬ前に何度も死ぬ思いをするが
勇者が死を味わうのは一度きりである)

昨晩、テレビで映画『ジュリアス・シーザー』をやっていたが、シェークスピアのそれではなくて史実にのっとったものであった。シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』はプロットが凝縮され一貫しており、ブルータスとアントニーの対照的で印象的な演説があるため英語圏の学生が最初に読む「シェークスピア」となっている。上に引用した一節は様々な凶兆を気にして、登院を思いとどまるようシーザーに懇願する妻キャルパーニアに向かって彼の述べた台詞である。この後、キャルパーニアがあまりにしつこくせがむので一旦は元老院行きを思いとどまるのだが、暗殺者の一味ディーシャスに上手く言いくるめられて登院し、そこで暗殺されることとなる。

臆病者が死ぬ前に何度も死に、勇者は一度しか死を味わわないというのは、臆病者は死を恐れるあまり死にそうな気持ちになる事が多いのに対して、勇者は死を恐れぬために死を味わうのは死ぬときだけだという意味である。ダンが死に向かって呼びかける「死よ、驕るな!」でも同様のロジックが展開されている。私は自殺する人の気持ちがわからない。むかしあるニュースキャスターが「自殺する勇気があるなら生きていけるはずだ」と言ったそうだが、自殺は勇気を持って行うものなのだろうか?むしろ、何度も迎える死に対する恐れから臆病者が起こす事なのではないだろうか?

どうせ死ぬのに、なんで死ぬのか分からない。

Mom and Pop were just a couple of kids

Mom and Pop were just a couple of kids when they got married.
He was eighteen, she was sixteen, and I was three.
--Billie Holiday (Lady Sings the Blues)
(ママとパパが結婚したとき、二人はまだほんの子供だった。
パパは18、ママは16、私は3つだった。)
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ビリー・ホリデイの自伝Lady Sings the Blues(邦題『奇妙な果実』)の冒頭である。だが、敢えて言えば二人は結婚はおろか同棲もしていなかった。そしてクラレンス・ホリデイも、実は彼女のパパなどではなかった。

「私生児として生まれ、幼い頃から売春婦として働かされ、歌で成功するも人種差別の辛酸を舐めさせられ、酒とドラッグにおぼれ、恋に破れるジャズシンガー」ビリー・ホリデイを描いたこの「自伝」は、だが実際には自伝などではなくゴシップ記者のウィリアム・ダフティーが扇情的に誇張し捏造して作り上げた質の低いゴシップ記事なのである。しかし、彼やその妻メイリー・ダフティー(フロー・ケネディーをして「彼女の寄生虫」と言わしめた人物)にだけその責任があったわけではない。読者や聴衆もまた「そういうビリー・ホリデイ」を読みたがり聴きたがったのだ。そして不思議な(というかもっともな)ことに、彼女自身がそのイメージを受け入れ、今度は積極的にそれを追い求めるようになった。「ビリー・ホリデイの伝説」とはそれを求める聴衆の欲求と、演出する芸能界という装置、そしてビリー自身という素材が複合して出来あがったものなのだ。

I hate ingratitude more in a man

I hate ingratitude more in a man
Than lying, vainness, babbling, drunkenness,
Or any taint of vice whose strong corruption
Inhabits our frail blood.
             (Twelfth Night 3. 4. 338-341)
(私はなによりも、人間の忘恩を憎みます。
嘘をついたり、見栄を張ったり、無駄口を叩いたり、酒に耽ったり、
私たちの弱い血の中に棲みついて強い悪影響を及ぼす、そのほかのどんな
邪悪の汚点よりも。)

ヴァイオラは忘恩をその他の汚点と比べてもっとも憎むといっているが、面白いことに忘恩の人というのは「嘘吐き」で「見栄っ張り」で「無駄口」ばかりで「酒浸り」なことが多い。つまり忘恩は必ずその他の汚点を伴って現れるものなのだ。年中嘘偽りを言い歩いているけれど恩を知る人とか、正直で謹厳実直な忘恩の輩というのは聞いたことがない。

詩人は別のところでもこう言っている。

I (am rapt, and) cannot cover
The monstrous bulk of this ingratitude
With any size of words. Timon of Athens. 5. 1. 62-64)
(この途方もない忘恩は、どんな数の言葉を
用いても、覆い隠す事など私には出来ません)

忘恩の人は、その忘恩ぶりを覆い隠すために嘘や作り話で自分を飾り立てている。しかし時がたてばそれらの嘘や作り話は剥げてゆき、真実が明らかになる。

Let it go naked: mem may see't the better. (5. 1. 65.)
(ならば、裸にしておけ。そのほうが人もよく見えるだろうから)

時が忘恩を丸裸にするまで待ってもいい。だが、その間に騙された人々は気の毒である。忘恩とは戦う必要がある。

Nature to all things fix'd the Limits fit

Nature to all things fix'd the Limits fit,
And wisely curb'd proud Man's pretending Wit:
As on the Land while here the Ocean gains,
In other Parts it leaves wide sandy Plains.
--Pope. An Essay on Criticism. 52-55
(自然の女神は全てのものに、ふさわしい限界を設け、
高慢な人間の思いあがった知恵を賢くも抑えた。
ちょうど大陸で、こちら側では大海が侵食し
別の場所では広い砂浜が広がっているように)

ポウプが用いる「侵食する海」のイメジはシェークスピアのそれと一緒で陸と海が隆替を繰り返すものとなっている。だが、これは人生や歴史を歌ったものではなく、一個の人間の才能の様相を歌ったものである。この直後に「記憶力」「判断力」「想像力」といったジョン・ロックが好みそうな諸能力(と、それが隆替していく様)を具象的なイメジを用いて歌っている。ここにはダンやシェークスピアのような広がりは感じられない。もっと細かく、小さな世界を精緻なイメジを駆使して分析するエートスが働いている。そして、このパラグラフの最後は

Like Kings we lose the Conquests gain'd before,
By vain Ambition still to make them more:
Each might his sev'ral Province well command,
Wou'd all but stoop to what they understand.
64-67
(国王たちのように、私たちは以前に征服したものを
もっと殖やそうと空頼みの野心を起こして失ってしまうのだ。
自分で理解しているものにだけ身を屈めていれば
誰でも各々の領地をよく治められるはずなのに)

と世間知のような言葉で結ばれているのが面白い。ポウプは若くしてこの作品を書いた。そのためダンやシェークスピアのような深みがないのは仕方がない。しかし、深みに欠けるのと同時に変に老成しているのはなぜだろう。