馬鹿の買い物(4)大たわけ編

ここへ来て、また馬鹿の買い物をした。

Bird: Complete Charlie Parker on Verve
既にヴァーヴ時代のパーカーのマスターテイク全集は持っているが、そこにはJATPのライブ盤が入ってなくて、いまひとつコンプリート感がなかった。こちらはそうしたライブ音源を含めて網羅されており、まあとりあえず買ってしまえという感じで注文した。

商品イメージとしてレディー・デイのコンプリートBOXを想像していたら大違い。やたらに大判なダンボールに入って到着したので開けてみたら、LPボックスより少し小さいだけの大型なボックス。

中身はこんな感じでCD3-4枚ケースが3つ収まっている。

そして大判ブックレットつき

パーカーのCDやレコードは初動を間違えると重複したり抜けがあったりで効率的に揃えづらいので、こういうの買ってしまうのもありかも。とはいえ、私の場合LP,CD含めもう何通りも重複させているので、やはりこれは大たわけの買い物なのである。内容はまたジャズブログで折を見て書く予定だが、一枚目冒頭一曲目の "Sweet Georgia Brown" の異様な音の良さに仰天した。

Heal Japan

There are ways to get there
If you care enough for the living
Make a little space
Make a better place
           Michael Jackson "Heal the World"
そんな(素敵な場所)へ行く方法ならある
生きているものに対して十分なケアさえできるなら。
少し隙間を空けてあげよう。
よい場所を作ろう。

震災関連のニュースで考えさせられるものが2つあった。ひとつは『「放射線うつる」といじめ 船橋市に避難した子ども』、もうひとつが「避難所に戻る高齢者たち 同居者に気兼ね、嫁の皮肉に嫁姑問題も」だ。どちらの出来事にも共通するのは「遠くにいているくれるなら十分応援するけれど、近くには来ないで」という人間の業と呼んでもいいような心理的傾向である。おそらく船橋の子もその親たちも、あるいは被災者の嫁も根っからの極悪人などではなく、震災について心を傷め、時に涙し、また寄付や援助なども行っていたことだろうと思う。しかし、それはそれ、これはこれという心境なのだ。

ニューヨークのハーレムという町がどうして出来上がったかご存知だろうか?あそこはもともとコケイジアン向けに高級住宅街として開発されたのである。確かにあのあたりのアップタウンはダウンタウンから遠い。しかし地下鉄の延長が計画されており、それを見越しての宅地開発であった。ところがこの延長工事が遅れに遅れ、地上といえばまだまだ馬車がメインの時代。朝の通勤時間にダウンタウンまで馬車を飛ばす人がなどいるはずもなく、住宅価格が低落。そこへユダヤ系移民が居を構え、やがてアフリカ系アメリカ人が住むようになると、もともと住んでいたコケイジアンが引越し、そこへまたアフリカ系の人が入る、この繰り返しで出来上がった街なのである。そこに働く心理もまた、「近くには来ないで」なのである。

人は自分にはあまり関係のない遠くでの出来事にはヒューマニズムを発揮できる。あるいは地震直後のように一種の熱狂的な時期ならば惜しみなく援助を行える。しかしやがて熱も醒めてくる。被災者もそうだ。最初は美味しかった炊き出しにも飽きてくる。リアルな日常に震災というものが根を下ろし始める。

じつはこの時から、震災との本当の戦いが始まる。

日常に震災の影響という違和感が少しだけ混ざる。しかしこの違和感こそが人をいらだたせ、時にはアンチヒューマニスティックな言動にさえ走らせる。この時、なにをもって自らを律するべきか?

冒頭のマイケルの歌にあるように、「少しだけスペースを空けて」あげるのである。心の中の6人がけの席を詰めてもう一人座らせてあげるのである。少しだけ給料や食べる量を減らすことである。前よりも少しだけ多めに働くことである。これはとても簡単なようでじつはもっとも難しいことではないだろうか。でも一人ひとりがこの心を持てれば、日本は、マイケルが歌うように、「よりよい場所」になると思う。

ただ私たち庶民よりもまず、政治家や資本家たちが率先しろよ、とは言い置いておきたい(笑)。

お腹のことに気を配れない人は、何に対しても気を配れない

Some people have a foolish way of not minding, or pretending not to mind, what they eat. For my part, I mind my belly very studiously, and very carefully; for I look upon it, that he who does not mind his belly, will hardly mind anything else. by Samuel Johnson (中には愚かにも自分の食べるものに対してなんら気を配らない、あるいは気を配らないふりをすることを身につけているものがいる。私といえば、自分のお腹には熱心に、また注意深く気を配っている。というのも、私の見るところ、お腹のことに気を配れない人は、何に対しても気を配れないからだ)


むかし、八日町にある酒屋のシャッターに「お腹のことを考えない人は、頭のことも考えない サミュエル・ジョンソン」という格言が書かれていた。その出典が上の一節。微妙な違いはあるが、大意は同じであろう。「気にしない」という訳だと日本語の「気にする」の持つネガティヴィティーが前面に出てしっくり来ないので、「気を配る」と訳してみた。

地震が起こってこのかた、私たちは情報の洪水の中にいる。情報の津波といってもいいだろう。さらにその情報自体が、「危険だ」「いや安全だ」「ヤッパリ危険だった」という激しい振幅の中にあり、かなり疲弊している人も多い。そうした中にあってわたしが一番気になった情報は、実をいうと「自衛隊が赤飯を食べている」と「原発作業員の食事がカロリーメイトでひどい」というものであった。赤飯はコメとマメが同時に取れるというスグレモノらしいが、それでも「もっといいもの食べさせたれよ」と思うし、まして原発作業員のカロリーメイトにいたっては何をかいわんやである。

警察消防を含め両者とも、もっとも過酷な仕事に従事している人たちである。英雄に祭り上げる暇があったら、もっと美味しくて暖かくて栄養のあるものを食べさせるべきなのだ。人は(というか生き物は)食を基本として、その上に文化なり、思想なり、科学なりを築き上げてきた。食は生きることの土台である、とたぶん山岡士郎も『美味しんぼ』の何巻かで言っていることだろう。「欲しがりません勝つまでは」の思想は時代錯誤どころかいつの時代にあっても錯誤なのである。

「被災者の気持ち」という人がいるけれど、そういう人に限って自分はぬくぬくとした環境にあって、一番困っている人を盾にして自分のフラストレーションをリリースしている人だったりするのは、内田樹先生の指摘するとおり。→未曾有の災害の時に  そんな人たちの声に耳を貸す必要などない。復興支援の人たちや協力会社からの原発作業員がまともなものを食べて力いっぱい働いている姿を非難する被災地の人などいないはずだ。

なにも毎食フルコースを食べてもらおうといっているのではない。復興も原発も彼らの双肩にかかっている、彼らの判断力にこそ、日本の未来がかかっているのだから、まずは彼らのお腹を私たちで支えようではないか。

Twitterとカレー

震災だけだったら、もう復興にベクトルを向けてもいい時期なのだが、あの忌まわしき巨大プラントという棘が微細な毒素を大量に放出しているということでなかなか気が休まらない昨今である。

震災や人工怪物の情報をいち早く知るという目的でTwitterをはじめてみた。とはいえはじめたばかりで、いまひとつ書き方も分からずに情報を受け取るいっぽうだったが、ようやく仕組みがわかって意味不明なことをつぶやくところまでこぎつけた。もっとも、意味不明なのはこのブログも一緒なのであるが。

そこで最近Twitterで紹介されていたカレー屋に行ってみた。八王子駅南口にある「スープカレー 奥芝商店」である。かなり有名な店らしく札幌、旭川、そして八王子にある。私が行った時は震災の影響か供せないメニューもあったが、リストのわりと上のほうにあった定番的なものを頼んでみた。「エビスープ+柔らかチキン」

辛さの中にエビの旨みが効いていて、美味しい。この唐辛子はかなりの難敵で、これを齧ったあとしばらく舌が火を噴いていた。辛いものは得意なほうなのだがそれを上回る辛さ、唐辛子本体はね。スープ自体はちょうどよい辛さであった。

トータルでかなりいい店なのだが、ボブ・ディランが流れていたり、テレビがブラウン管の白黒だったり、なんと言うか、主張が強すぎるところが玉に瑕。「分かるけれど、そこまで主張しなくても、十分とらまえているよ、言いたいことは」ぐらい言いたくなる。味はホンモノなので、こういう趣向を軽くスルーできれば十分に行く価値のあるお店である。

ちなみにTwitter IDはcat_fukaoとした。