© 2005 fukao

the bridge I crossed

The bridge of Cherokee, that's the bridge I crossed. . . .
                        (Bird)
(俺が渡ったのは、チェロキーのブリッジ(橋)だった)

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映画『バード』の中で、パーカーはバップのアイデアが実現したときの瞬間をこのように語る。ブリッジに二重の意味(「橋」と曲の「Bメロ、サビ」」)をかけている所が洒落(word play)になっているわけだ。
しかし、これは創作ではないだろうか?よく引用されるのは、以下のようなもっと「散文的」なインタビューである。
I kept thinking there's bound to be something else…. I could hear it sometimes, but I couldn't play it. Well, that night I was working over "Cherokee," and as I did I found that by using the higher intervals of a chord as a melody line and backing them with appropriately related changes, I could play the thing I’d been hearing. I came alive
(もっとなにか別の方法があるのだと、ずっと考えていた。その何かとは、時折聞こえてはいたけれどまったく演奏できないものだった。その晩、俺は「チェロキー」をやっていて、コードの上のほうの音をメロディーラインに用いて、それに沿った関係コードでバッキングする事を思いついた、するとずっと頭の中で聞こえてきたものを音に出す事が出来たんだ。それで俺は生き返った)。

もちろん映画の事だから脚色もあるだろうし、鮮烈な表現という点なら「ブリッジを渡る」ほうがすぐれていると思う。

でもその一方で、この映画ではパーカーがロックンロールを低い音楽として見下しているかのようなシーン(「なんでB♭だけなんだ!?」)があるが、現実のパーカーはどうだったんだろう?

They teach you there's a boundary line to music. But, man, there's no boundary line to art.
(音楽には境界線があるとよく言われる。でもな、芸術には境界線がないんだよ)

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