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良心の立入禁止区域

原爆投下60年ということで、昨日(8/7)NHKで「原爆投下に関わった側の言い分」を特集する番組をやっていました。エノラ・ゲイの乗組員や司令官らのうち生存している人たちに対するインタビューを中心として構成されていましたが、彼らはおしなべて「原爆投下は戦争を早期終結させるために必要であった」ときわめて強い口調で語っていました。
それを観ながら、彼らの自己中心的な主張に憤慨すると同時に、他方である種の同情を禁じ得ませんでした。なぜなら、彼らは皆沈痛な面もちで語っていたからです。
人は自分がもっとも確信を持てない場所、もっとも痛い場所を指摘されるときに、もっとも強い反応を示すものです。彼らが強弁すればするほど、それは彼らの後悔の表徴でありそこを斟酌する必要があると思いました。過去を責め続けて「人道に対する罪を犯しました」という懺悔を求め続けてもそれはありえないことです。人は常に「自分は合理的に判断して今ここにいる」と思いながら、散乱する現実をなんとか堪え忍んでいるものだから。むしろ彼ら自身が感じている結果の悲惨さを未来に向けて語ってもらうべき時なのではないのかと感じました。

こうした人々の中で、イーザリーという気象官が、戦後原爆投下の非をならし、却って精神病院に強制入院させられる事情も描かれていました。このイーザリーとユダヤ人哲学者アンダースがかわした往復書簡『良心の立入禁止区域』が同番組で紹介されました。この中でとくに感銘を受けたのは「君が精神病院に入れられているのは、君が狂っているからではなく、君の周りが狂っているからだ」というアンダースの言葉でした。チャップリンの『独裁者』の有名なシーン、逆さに飛ぶ飛行機を取り上げて、丸山眞男は『現代政治の思想と行動』の中で大意次のようなことを述べています。「ああやって逆さまになって飛んでいて、且つそのことに気づかないと、逆さまの世界が正しいと思えてきてしまう。」
チャップリン演じる床屋はユダヤ人女性が侮辱されているのを見過ごせず、突撃隊に立ち向かいますが、周りの人は最初彼をおかしい人だと思います。しかし、おかしいのは女性を陵辱して良しとする社会であって、床屋ではないはずなのですが、社会の価値観が転倒してしまうと、一緒に転んでいる側が正しく、まっすぐ立っている側がおかしいように観られてしまうということが丸山によって指摘されています。『独裁者』をこのような観点で観たことがなかったので、丸山の指摘を読んだときは非常に感銘を受けました。と同時に、アンダースの指摘もまた丸山の指摘と機を一にしていることにもテレビを観ながら感動しました。

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