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意味という病 再考

人生は歩く影法師、哀れな役者だ、出番が来れば
舞台ではしゃぎ跳ね回るが、出番が終われば誰も気にしない、
それは道化によって語られた物語、怒りと響きに満ちていても、
意味などない(『マクベス』)

現都知事が地震を「天罰」と発言したり、それを引っ込めたり、まだ未練があるらしく再び釈明したりしているが、この発言が問題なのは「不謹慎」だからではない。問題なのは彼が地震に意味を付与したがっているからだ。

人が出来事に対して意味を付与しながらでないと生きていけないのは、そうすることによって、その出来事を各自が責任と引きうけを持って乗り越えたり、方向転換をしたり、ときに上手く退避するためである。カントのいう「統制的」な意味の使用である。それは他人から勝手に定義づけられるものではないし、まして権力者が力任せに定義していいものでもない。

スーザン・ソンターグは自身がガンに罹ったとき、ガンを取り巻く強烈なメタフォーと意味の過剰について考察しているが、病すらそこに先験的な意味などないという健全性の回復を訴えている。なぜ意味がそれほど危険なのか?それは病や天災に対峙するためのエネルギーを、意味のほうに吸い取られてしまうからである。

人は病にに罹ったり天災に遭遇した時、どうしても形而上的に意味を問うてしまう。「なぜ自分が?」。しかし、その答を見出せたとしてもガンは治らないし、状況は好転しない。にもかかわらず、やはり意味を問うてしまうのが人間である。しかし、そこから先は宗教の分野であって政治の分野には属していない。

私は思う。病であれ天災であれ、そこに意味などない。あるとすれば、それは自分自身が作り出した意味であり、それは自分自身を実践的に解放し向上させるものでなければ、「意味がない」。

スーザン・ソンターグ『病とそのメタフォー』
柄谷行人『意味という病』

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