To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow; a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
---Macbeth (V, v, 19)
(明日、また明日、また明日が
のろのろとした足取りで一日一日を這い進み
歴史として記録された時の最後の一音節に辿り着く。
そして昨日という日は全て、死に向かう馬鹿者どもを
照らしてきたのだ。消してしまえ、つかの間の灯火など!
人生は歩く影法師、哀れな役者にすぎない。
出番がくれば舞台で騒ぎ、はしゃいでいても、
出番が終われば聴かれることなどない。人生は
白痴の話す物語だ。喧噪と怒りに満ちあふれてはいるが
意味などない。)
夫人の死(自殺)を知ったマクベスは、「あいつもいつかは死ななければならなかった・・・」と語った後、この独白を始める。もしこの世界でもっとも有名な独白を無味乾燥にパラフレーズするならば「人生は死へ向かってとぼとぼ歩くもの。人は哀れな役者、生きているうちは大騒ぎしているが死ねば終わり、意味などない」ということになるだろうか。以前に引用した『お気に召すまま』の「この世界はすべてこれ1つの舞台」ではじまるジェイクイズの独白と比べると、用いている比喩の枠組みは似ているのに、醸し出されるイメジは全く異なっていることに驚く。『お気に召すまま』では"one man in his time plays many parts"(そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる)と能動的に演じる役者であった人が、『マクベス』では歩く影法師、哀れな役者にまで落とされている。影法師は本体が動くことによって動くが、これは自ら動いているのではない。本体によって動かされているのである。だからマクベスのいう「哀れな役者」とは自ら演じているのではなく、実は演じさせられている役者のことだ。これを読んだ人は「人生は意味などない」と知って暗い気持ちになったり絶望的な気持ちになるだろうか?私はむしろ元気になる。なぜなら意味などないからこそ、倫理と実践が喚起されるからである。
こんな駄文でも熱心に目を通してくれている学生さんがいて、先日その人と話しているときにちょっと意見がすれ違っているのに気づいた。よくよく話してみると「倫理」という語の意味をお互いに違って使っていたことが分かった。彼女が「倫理=道徳的なもの」ととらえているのに対して、私は「倫理=非道徳的なもの」という意味で使っていたからだ。倫理とはたしかに道徳と一緒にして使われたりするので混同されがちだが、実は道徳とは全く異なるものである。道徳とは共同体によって認められている価値の体系であって、「そうすることがよい」とされている事柄の系である。したがって「道徳的にふるまう」とは、他人によって決められた価値体系に身をすり寄せることを指すのだ。一方、倫理とは「そうすることがよいかどうかは分からないが、私はこれをする」という決断を指す。
意味がある=価値があると分かっていることをするのに何も決断はいらない。しかし、意味がないこと、あるいは弁証論的に意味があると証明し得ないもの、つまり形而上学的な領域に属する問題に立ち向かうとき、人は決断を迫られる。マクベスはここで悲劇的なトーンを湛えつつもこのことを指しているのである。意味などない、ゆえにあらゆる意味を生み出しうる。