words, words, words

Our knowledge has made us cynical

We have developed speed, but we have shut ourselves in.
Machinery that gives abundance has left us in want.
Our knowledge has made us cynical; our cleverness, hard and unkind.
We think too much and feel too little.
--Chaplin. The Great Dictator.
(私たちはスピードを発達させてきたが、かえってその中に自らを閉じ込めてしまった。
豊かさをもたらしてくれる機械が私たちを欠乏に突き落としている。
知識のために私たちは皮肉屋になり、利口になった分、非情で冷酷になっている。
私たちは考えすぎて感じることがあまりに少ない。)

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チャップリンの映画『独裁者 』の最後の演説の一部である。こういった対照法(antithesis)はポウプに頼めば手際よく処理してくれるかもしれないが、それではこの表現の直接性が失われるかもしれない。
初上映から65年。まったく色褪せていないことにむしろ驚かされる。いや、ますます現実味、そして凄みすら帯びてきている。いまこそ、チャップリンなのではないだろうか。

All the world's a stage

All the world's a stage,
And all the men and women merely players.
They have their exits and their entrances,
And one man in his time plays many parts,
His acts being seven ages.
--As You Like It (II, vii, 139-143)
(この世界はすべてこれ1つの舞台
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる、
年齢によって7幕に分かれているのだ。)

放蕩者のジェークイズが哲学者に変わる瞬間である。ここにはマクベスの"walking shadow, a poor player"のような暗い影は差していないが、それでもこれに続く台詞はリアリスティックで非情だ。結構長いのでここには引用しないが興味のある人は原作を読むとよいだろう。

この「世界は舞台」「私たちは役者」という思想は、生命や人生をメタな視点から見つめる足場を提供してくれる。しかし、この足場はあくまで倫理的なものであり、上のような考え方をすれば誰でも獲得できるような生易しいものではない。私の尊敬する詩人がかつてこう歌った。「君よ一生を劇の如く」。劇のような一生を送り、送りながらそれを劇であると理解して悠々と見下ろせる足場、これは実践的にしか獲得し得ないものだ。

The wrinkled sea beneath him crawls

He claps the crag with crooked hands,
Close to the sun in lonely lands,
Ring'd with the azure world, he stands.

The wrinkled sea beneath him crawls,
He watches from his mountain walls,
And like a thunderbolt he falls.
           (Tennyson; The Eagle)
(彼は絶壁の岩を、鍵爪のついた手でがっちりと掴んでいる。
孤独な島々において太陽のちかく
蒼穹の世界に取り巻かれながら、彼は佇む。

眼下には皺うつ波が這っている、
彼は崖の頂きからそれを眺め、
雷斧の如き速さで急降下する。)

テニソンの詩「鷲」である。この詩は良い悪い以前に詩の教科書にうってつけの諸要素を備えている。一部で破格するものの全体が「弱強格四音歩(iambic tetrametre)」の三行連(triplet)であること、冒頭の音の様子がごつごつした岩場を表すような音であり、いわゆる音象徴の性質が強いことなど。しかしとりわけ私が注目しているのは「眼下には皺うつ波が這っている」という四行目である。

私の尊敬する桂冠詩人がかつてこう言った:「詩とは分析に対する総合であり、いままで出会いもしなかったような言葉がそこではじめて出会う」と。「皺(wrinkle)」と「海(sea)」、そして「這う(crawl)」という語は一緒に使われる機会の少ない語で、おそらくここで初めて出会ったのであろう。だがどうだろう、鷲の視点から見れば眼下の海は波打つのではなく皺がよって這っているように見えるのではないか。

Cowards die many times before their deaths

Cowards die many times before their deaths,
The valiant never taste of death but once.
--Julius Caesar (II, ii, 32-37)
(臆病者は死ぬ前に何度も死ぬ思いをするが
勇者が死を味わうのは一度きりである)

昨晩、テレビで映画『ジュリアス・シーザー』をやっていたが、シェークスピアのそれではなくて史実にのっとったものであった。シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』はプロットが凝縮され一貫しており、ブルータスとアントニーの対照的で印象的な演説があるため英語圏の学生が最初に読む「シェークスピア」となっている。上に引用した一節は様々な凶兆を気にして、登院を思いとどまるようシーザーに懇願する妻キャルパーニアに向かって彼の述べた台詞である。この後、キャルパーニアがあまりにしつこくせがむので一旦は元老院行きを思いとどまるのだが、暗殺者の一味ディーシャスに上手く言いくるめられて登院し、そこで暗殺されることとなる。

臆病者が死ぬ前に何度も死に、勇者は一度しか死を味わわないというのは、臆病者は死を恐れるあまり死にそうな気持ちになる事が多いのに対して、勇者は死を恐れぬために死を味わうのは死ぬときだけだという意味である。ダンが死に向かって呼びかける「死よ、驕るな!」でも同様のロジックが展開されている。私は自殺する人の気持ちがわからない。むかしあるニュースキャスターが「自殺する勇気があるなら生きていけるはずだ」と言ったそうだが、自殺は勇気を持って行うものなのだろうか?むしろ、何度も迎える死に対する恐れから臆病者が起こす事なのではないだろうか?

どうせ死ぬのに、なんで死ぬのか分からない。

Mom and Pop were just a couple of kids

Mom and Pop were just a couple of kids when they got married.
He was eighteen, she was sixteen, and I was three.
--Billie Holiday (Lady Sings the Blues)
(ママとパパが結婚したとき、二人はまだほんの子供だった。
パパは18、ママは16、私は3つだった。)
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ビリー・ホリデイの自伝Lady Sings the Blues(邦題『奇妙な果実』)の冒頭である。だが、敢えて言えば二人は結婚はおろか同棲もしていなかった。そしてクラレンス・ホリデイも、実は彼女のパパなどではなかった。

「私生児として生まれ、幼い頃から売春婦として働かされ、歌で成功するも人種差別の辛酸を舐めさせられ、酒とドラッグにおぼれ、恋に破れるジャズシンガー」ビリー・ホリデイを描いたこの「自伝」は、だが実際には自伝などではなくゴシップ記者のウィリアム・ダフティーが扇情的に誇張し捏造して作り上げた質の低いゴシップ記事なのである。しかし、彼やその妻メイリー・ダフティー(フロー・ケネディーをして「彼女の寄生虫」と言わしめた人物)にだけその責任があったわけではない。読者や聴衆もまた「そういうビリー・ホリデイ」を読みたがり聴きたがったのだ。そして不思議な(というかもっともな)ことに、彼女自身がそのイメージを受け入れ、今度は積極的にそれを追い求めるようになった。「ビリー・ホリデイの伝説」とはそれを求める聴衆の欲求と、演出する芸能界という装置、そしてビリー自身という素材が複合して出来あがったものなのだ。

I hate ingratitude more in a man

I hate ingratitude more in a man
Than lying, vainness, babbling, drunkenness,
Or any taint of vice whose strong corruption
Inhabits our frail blood.
             (Twelfth Night 3. 4. 338-341)
(私はなによりも、人間の忘恩を憎みます。
嘘をついたり、見栄を張ったり、無駄口を叩いたり、酒に耽ったり、
私たちの弱い血の中に棲みついて強い悪影響を及ぼす、そのほかのどんな
邪悪の汚点よりも。)

ヴァイオラは忘恩をその他の汚点と比べてもっとも憎むといっているが、面白いことに忘恩の人というのは「嘘吐き」で「見栄っ張り」で「無駄口」ばかりで「酒浸り」なことが多い。つまり忘恩は必ずその他の汚点を伴って現れるものなのだ。年中嘘偽りを言い歩いているけれど恩を知る人とか、正直で謹厳実直な忘恩の輩というのは聞いたことがない。

詩人は別のところでもこう言っている。

I (am rapt, and) cannot cover
The monstrous bulk of this ingratitude
With any size of words. Timon of Athens. 5. 1. 62-64)
(この途方もない忘恩は、どんな数の言葉を
用いても、覆い隠す事など私には出来ません)

忘恩の人は、その忘恩ぶりを覆い隠すために嘘や作り話で自分を飾り立てている。しかし時がたてばそれらの嘘や作り話は剥げてゆき、真実が明らかになる。

Let it go naked: mem may see't the better. (5. 1. 65.)
(ならば、裸にしておけ。そのほうが人もよく見えるだろうから)

時が忘恩を丸裸にするまで待ってもいい。だが、その間に騙された人々は気の毒である。忘恩とは戦う必要がある。

Nature to all things fix'd the Limits fit

Nature to all things fix'd the Limits fit,
And wisely curb'd proud Man's pretending Wit:
As on the Land while here the Ocean gains,
In other Parts it leaves wide sandy Plains.
--Pope. An Essay on Criticism. 52-55
(自然の女神は全てのものに、ふさわしい限界を設け、
高慢な人間の思いあがった知恵を賢くも抑えた。
ちょうど大陸で、こちら側では大海が侵食し
別の場所では広い砂浜が広がっているように)

ポウプが用いる「侵食する海」のイメジはシェークスピアのそれと一緒で陸と海が隆替を繰り返すものとなっている。だが、これは人生や歴史を歌ったものではなく、一個の人間の才能の様相を歌ったものである。この直後に「記憶力」「判断力」「想像力」といったジョン・ロックが好みそうな諸能力(と、それが隆替していく様)を具象的なイメジを用いて歌っている。ここにはダンやシェークスピアのような広がりは感じられない。もっと細かく、小さな世界を精緻なイメジを駆使して分析するエートスが働いている。そして、このパラグラフの最後は

Like Kings we lose the Conquests gain'd before,
By vain Ambition still to make them more:
Each might his sev'ral Province well command,
Wou'd all but stoop to what they understand.
64-67
(国王たちのように、私たちは以前に征服したものを
もっと殖やそうと空頼みの野心を起こして失ってしまうのだ。
自分で理解しているものにだけ身を屈めていれば
誰でも各々の領地をよく治められるはずなのに)

と世間知のような言葉で結ばれているのが面白い。ポウプは若くしてこの作品を書いた。そのためダンやシェークスピアのような深みがないのは仕方がない。しかし、深みに欠けるのと同時に変に老成しているのはなぜだろう。

When I have seen the hungry ocean gain

When I have seen the hungry ocean gain
Advantage on the kingdom of the shore,
And the firm soil win of the watery main,
Increasing store with loss and loss with store;
--Sonnet 64
(飢えた海洋が陸の王国を侵食し、
こんどは固い大地が大海原に打ち勝ち、
損得が互いに隆替していく様を
私が目にする時に)

ダンのところでも少し触れたが、海による陸の侵食のイメジを用いたシェークスピアの『ソネット』64番からの四行連(quatrain)である。どちらも死を示すイメジとして用いているのであるが、ダンの場合一方的に陸地が海洋によって侵食され減少していく直線的なものであるのに対して、こちらは陸と海とが相争い、互いに勝ったり負けたりしてゆくダイナミズムを含んでいる点で好きである。人生というのは確かに、死を目指してのろのろと這っていくようなものかもしれない。しかしそこには勝ったり負けたりのドラマがあるし、またそのドラマを行き切ってこそ、死の意味を創り出すことが可能になるのではないだろうか?いずれにせよ、人は雨が降るように死んでいくのだから。
この陸と海との戦いはポウプの手に掛かると、縮小化されて才能や性向を示すイメジとしてのんきに用いられるようになる。

No man is an Island,

No man is an Island, entire of itself; every man is a piece of the Continent, a part of the main; if a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if a manor of thy friends or of thine own were; any man's death diminishes me, because I am involved in Mankind; And therefore never send to know for whom the bell tolls; It tolls for thee.
John Donne, "Meditation XVII"

(人間は島ではない。人間はそれ自身で全体ではない。全ての人間は大陸の一部、本土の一角なのだ。土くれが海によって洗い流されれば、ヨーロッパはそれだけ小さくなる。ちょうど、岬が縮小されるように、そして君の友人や君自身の荘園が減っていくように。誰かの死は私自身を小さくするのだ、なぜならば私は人類全体に含まれているのだから。だから決して誰がために鐘は鳴るのか知ろうとしてはならない。鐘は君のために鳴るのだ。)

ジョン・ダンの文「瞑想17」の一節である。この一節は締めくくりの"for whom the bell tolls"(誰がために鐘は鳴る)が後にヘミングウェイの同名の小説のタイトルとなったことでも有名である。ここでいう"bell"とは"passing-bell"、すなわち弔鐘のことであり、鐘が鳴ったからといって人を遣って誰が死んだのかを問わせてはならないという意味である。
ここで語られている個と類の関係性は古くから思想のトポスとなっているし、海に侵食される大地のイメジもシェイクスピアの『ソネット』やポウプの『批評論』でも用いられるおなじみのものである。私が面白いと思うのは、日本人から見れば、イギリス人は島のような人々であるし、それも絶海の孤島みたいな人が多いように思える事である。むしろそういう人が多いところだからこそ、このような思想が強調されるのかもしれない。

all too brief

You see, Adso, the step between ecstatic vision and sinful frenzy is all too brief.
--The Name of the Rose
(よいか、アドソ、恍惚の幻視と肉欲の罪深き熱狂との差はあまりにも僅かなものなのだ)
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映画『薔薇の名前』で「バスカーヴィルのウィリアム」(ショーン・コネリー)が口にする台詞である。弟子アドソに対して異端(「罪深き熱狂」)の説明をしているのだ。映画ではわかりづらいが原作を読むと、実はこの台詞がウィリアム陣営(フランシスコ修道会)の指導者「カサレのウベルティーノ」に対して言われたものであるという事が分かる。彼もまた、恍惚の幻視によって導かれ修行しているという設定であるのだ。つまり、ウィリアムから見ればウベルティーノの「正統」の幻視も、彼が告発する「異端」の熱狂も、その差はごく小さいと言っているわけである。
修道士ウィリアムは当時の「スコラ哲学」を信奉しており、神学を理性で理解しようと勤めていた人物という設定である。したがって、奇跡や幻視などに頼る信仰にはきわめて批判的だ。彼にとっては相手の無知につけこんで人を脅すことによって集める尊敬などは唾棄すべきものなのである。そしてこうした教義に人がのめりこんで行く原因に「純粋さ」を挙げている点が興味深い。原作では次のような問答が師弟の間でなされる:

ウィリアム「だが、純粋さというのは何であれ、私を恐れさせる」
アドソ「純粋さの何があなたをもっとも恐れさせるのですか?」
ウィリアム「性急な点だよ」

現代でいえば「原理主義」や「過激派」といわれるももの姿をよく捉えている。事実、著者であるウンベルト・エコーはイタリアの「過激派」が純粋な理念から出発しながらも、現実との格闘の中で失望と焦燥から自滅的なテロ行為へと走っていった姿を重ね合わせてこれを書いた、とも言われている。
「改革を夢見る純粋な魂が・・・現実の社会の大地に、根を張り、枝を茂らせて」行けるように粘り強く努力していくこと、そこに信仰する意味があるのではないだろうか?