When I have seen the hungry ocean gain

When I have seen the hungry ocean gain
Advantage on the kingdom of the shore,
And the firm soil win of the watery main,
Increasing store with loss and loss with store;
--Sonnet 64
(飢えた海洋が陸の王国を侵食し、
こんどは固い大地が大海原に打ち勝ち、
損得が互いに隆替していく様を
私が目にする時に)

ダンのところでも少し触れたが、海による陸の侵食のイメジを用いたシェークスピアの『ソネット』64番からの四行連(quatrain)である。どちらも死を示すイメジとして用いているのであるが、ダンの場合一方的に陸地が海洋によって侵食され減少していく直線的なものであるのに対して、こちらは陸と海とが相争い、互いに勝ったり負けたりしてゆくダイナミズムを含んでいる点で好きである。人生というのは確かに、死を目指してのろのろと這っていくようなものかもしれない。しかしそこには勝ったり負けたりのドラマがあるし、またそのドラマを行き切ってこそ、死の意味を創り出すことが可能になるのではないだろうか?いずれにせよ、人は雨が降るように死んでいくのだから。
この陸と海との戦いはポウプの手に掛かると、縮小化されて才能や性向を示すイメジとしてのんきに用いられるようになる。

No man is an Island,

No man is an Island, entire of itself; every man is a piece of the Continent, a part of the main; if a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if a manor of thy friends or of thine own were; any man's death diminishes me, because I am involved in Mankind; And therefore never send to know for whom the bell tolls; It tolls for thee.
John Donne, "Meditation XVII"

(人間は島ではない。人間はそれ自身で全体ではない。全ての人間は大陸の一部、本土の一角なのだ。土くれが海によって洗い流されれば、ヨーロッパはそれだけ小さくなる。ちょうど、岬が縮小されるように、そして君の友人や君自身の荘園が減っていくように。誰かの死は私自身を小さくするのだ、なぜならば私は人類全体に含まれているのだから。だから決して誰がために鐘は鳴るのか知ろうとしてはならない。鐘は君のために鳴るのだ。)

ジョン・ダンの文「瞑想17」の一節である。この一節は締めくくりの"for whom the bell tolls"(誰がために鐘は鳴る)が後にヘミングウェイの同名の小説のタイトルとなったことでも有名である。ここでいう"bell"とは"passing-bell"、すなわち弔鐘のことであり、鐘が鳴ったからといって人を遣って誰が死んだのかを問わせてはならないという意味である。
ここで語られている個と類の関係性は古くから思想のトポスとなっているし、海に侵食される大地のイメジもシェイクスピアの『ソネット』やポウプの『批評論』でも用いられるおなじみのものである。私が面白いと思うのは、日本人から見れば、イギリス人は島のような人々であるし、それも絶海の孤島みたいな人が多いように思える事である。むしろそういう人が多いところだからこそ、このような思想が強調されるのかもしれない。

all too brief

You see, Adso, the step between ecstatic vision and sinful frenzy is all too brief.
--The Name of the Rose
(よいか、アドソ、恍惚の幻視と肉欲の罪深き熱狂との差はあまりにも僅かなものなのだ)
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映画『薔薇の名前』で「バスカーヴィルのウィリアム」(ショーン・コネリー)が口にする台詞である。弟子アドソに対して異端(「罪深き熱狂」)の説明をしているのだ。映画ではわかりづらいが原作を読むと、実はこの台詞がウィリアム陣営(フランシスコ修道会)の指導者「カサレのウベルティーノ」に対して言われたものであるという事が分かる。彼もまた、恍惚の幻視によって導かれ修行しているという設定であるのだ。つまり、ウィリアムから見ればウベルティーノの「正統」の幻視も、彼が告発する「異端」の熱狂も、その差はごく小さいと言っているわけである。
修道士ウィリアムは当時の「スコラ哲学」を信奉しており、神学を理性で理解しようと勤めていた人物という設定である。したがって、奇跡や幻視などに頼る信仰にはきわめて批判的だ。彼にとっては相手の無知につけこんで人を脅すことによって集める尊敬などは唾棄すべきものなのである。そしてこうした教義に人がのめりこんで行く原因に「純粋さ」を挙げている点が興味深い。原作では次のような問答が師弟の間でなされる:

ウィリアム「だが、純粋さというのは何であれ、私を恐れさせる」
アドソ「純粋さの何があなたをもっとも恐れさせるのですか?」
ウィリアム「性急な点だよ」

現代でいえば「原理主義」や「過激派」といわれるももの姿をよく捉えている。事実、著者であるウンベルト・エコーはイタリアの「過激派」が純粋な理念から出発しながらも、現実との格闘の中で失望と焦燥から自滅的なテロ行為へと走っていった姿を重ね合わせてこれを書いた、とも言われている。
「改革を夢見る純粋な魂が・・・現実の社会の大地に、根を張り、枝を茂らせて」行けるように粘り強く努力していくこと、そこに信仰する意味があるのではないだろうか?

Here lies one who often lied before

Here lies one who often lied before,
But now he lies here, he lies no more.
--an epitaph
(ここにかつてしばしば嘘をついた者が横たわる
もうここに横たわっているから、嘘はつかない)

某弁護士の墓碑銘(epitaph)である。この墓碑銘は洒落(word play)の教材として用いられる有名なものである。今日がApril Foolなので取り上げてみた。弁護士がすべて嘘をつく(lie)かどうかは分からないが、弁護士といわずすべての人はいずれ目をつむって横たわる(lie)のは間違いのないところである。