all too brief

You see, Adso, the step between ecstatic vision and sinful frenzy is all too brief.
--The Name of the Rose
(よいか、アドソ、恍惚の幻視と肉欲の罪深き熱狂との差はあまりにも僅かなものなのだ)
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映画『薔薇の名前』で「バスカーヴィルのウィリアム」(ショーン・コネリー)が口にする台詞である。弟子アドソに対して異端(「罪深き熱狂」)の説明をしているのだ。映画ではわかりづらいが原作を読むと、実はこの台詞がウィリアム陣営(フランシスコ修道会)の指導者「カサレのウベルティーノ」に対して言われたものであるという事が分かる。彼もまた、恍惚の幻視によって導かれ修行しているという設定であるのだ。つまり、ウィリアムから見ればウベルティーノの「正統」の幻視も、彼が告発する「異端」の熱狂も、その差はごく小さいと言っているわけである。
修道士ウィリアムは当時の「スコラ哲学」を信奉しており、神学を理性で理解しようと勤めていた人物という設定である。したがって、奇跡や幻視などに頼る信仰にはきわめて批判的だ。彼にとっては相手の無知につけこんで人を脅すことによって集める尊敬などは唾棄すべきものなのである。そしてこうした教義に人がのめりこんで行く原因に「純粋さ」を挙げている点が興味深い。原作では次のような問答が師弟の間でなされる:

ウィリアム「だが、純粋さというのは何であれ、私を恐れさせる」
アドソ「純粋さの何があなたをもっとも恐れさせるのですか?」
ウィリアム「性急な点だよ」

現代でいえば「原理主義」や「過激派」といわれるももの姿をよく捉えている。事実、著者であるウンベルト・エコーはイタリアの「過激派」が純粋な理念から出発しながらも、現実との格闘の中で失望と焦燥から自滅的なテロ行為へと走っていった姿を重ね合わせてこれを書いた、とも言われている。
「改革を夢見る純粋な魂が・・・現実の社会の大地に、根を張り、枝を茂らせて」行けるように粘り強く努力していくこと、そこに信仰する意味があるのではないだろうか?

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