words, words, words

Here lies one who often lied before

Here lies one who often lied before,
But now he lies here, he lies no more.
--an epitaph
(ここにかつてしばしば嘘をついた者が横たわる
もうここに横たわっているから、嘘はつかない)

某弁護士の墓碑銘(epitaph)である。この墓碑銘は洒落(word play)の教材として用いられる有名なものである。今日がApril Foolなので取り上げてみた。弁護士がすべて嘘をつく(lie)かどうかは分からないが、弁護士といわずすべての人はいずれ目をつむって横たわる(lie)のは間違いのないところである。

Knowledge is of two kinds.

Knowledge is of two kinds. We know a subject ourselves,
or we know where we can find information upon it.
--- Samuel Johnson (Boswell's Life of Johnson)
(知識には2種類ある。ある主題について私たち自身で知っている事とその情報はどこで見つける事が出来るかを知っている事だ)
ボズウェル『サミュエル・ジョンソン伝』の有名な一節は、さらにこう続く:When we enquire into any subject, the first thing we have to do is to know what books have treated of it. This leads us to look at catalogues, and at the backs of books in libraries.(私たちが何かのテーマを調べようとする時、最初にすべき事はどの書物がそれを扱っているかを知る事である。そういうわけで、私たちはカタログや図書室に並ぶ本の背表紙をながめるのだ。)図書室で本のほうへすっ飛んでいき、熱心に背表紙を眺め始めたジョンソン博士が「そんなに背表紙がお好きとは妙な癖もあったもんですね」と言われて、即座に返した寸鉄がこれだ。パソコンを見るとすっ飛んでいき、その前に何時間でも座っている人が「ネット中毒ですね」と非難されたらこう言い返せばいいというお手本である。ネットはたしかに、図書館やカタログよりもさらに調べやすいツールである。いわば2番目の知識をどこまでも簡易化、標準化しようというエートスが端的に具現化したようなものである。もはや誰でも、調べたい事を即座に調べる事が出来るようになっている。あとは「何を調べるべきか」という倫理的問題だけが残されているだけかもしれない。

Hates any man the thing he would not kill?

Bassanio: Do all men kill the things they do not love?
Shylock: Hates any man the thing he would not kill?
          (The Merchant of Venice. 4. 1. 66-67)
「気に入らないから殺す、それが人間か?」と問いただすバッサーニオに対して「憎けりゃ殺す、それが人間だ」と言いはなつシャイロック。『ヴェニスの商人』のあまりにも有名な場面である。この交差法(chiasmus)は日本語に直訳するとかえって不自然になるせいか、小田島・福田訳とも平行法(parallelism)を用いている。

一体この一節にどれほどの人間が解説を加えているだろう?ある人は言う:「シャイロックは正しい、それが人間の本性だ」。また別の人は言う、「憎けりゃ殺す、それは人間だけだ。動物は憎しみから殺したりはしない。人間は本能が壊れているんだ」云々。もう、そういう議論はお腹一杯である。そうしたニヒリスティックな、あるいはペシミスティックな身振りは、虚無的・悲観的な事態を達観して受け入れられる自己の優越性を誇示しているに過ぎないのだから。
人間だからこそ、同時にバッサーニオのような問いを立てる事が出来る。「憎けりゃ殺す」のも人間なら、それに異議を申し立てる事が出来るのもやはり人間だけなのだ。したがってこの問答は徹底して人間の内側の戦いを描いているのであり、獣より下だとか、本能が壊れているとかいったようなのんきな事態ではないのである。

Our doubts are traitors

        Our doubts are traitors,
And make us lose the good we oft might win
by fearing to attempt.
            (Measure for Measure. 1. 4. 77-79)
      (とうてい無理だという疑いこそ裏切り者なのです。
やってみることを恐れさせて、手に入るかもしれないものまで
失わせてしまうのです)

擬人法(personification)は一般に命を失った比喩であることが多いが、この『尺には尺を』のなにげない擬人法はどうだろう?特に鮮烈なイメジをともなっているわけでもないのに、この擬人法(疑念は裏切り者)のせいで「疑念」が自分でコントロールできる心の作用などではなく、あたかも私たちをコントロールしようと反乱を起こし策略をし掛けてくる他者として立ち現れているではないか。そして事実、疑念は自分でコントロールできるような生易しいものではないのだと思う。この「疑念」は後に「嫉妬」と手を携えて『オセロ』の中で自律的に暴れまわる。

It will come

It will come
Humanity must perforce prey on itself,
Like monsters of the deep.
           (King Lear. 4. 2. 48-50)
(きっと来る
まるで深海に棲む化け物のように
人間が人間を餌食にする時が。)

嫁ゴネリルのリア王に対する非道を叱って、夫オルバニー公が述べる台詞である。お前たちのような非道を天が懲らしめなければ「きっとこんな時代が来る」と言っているわけだ。これは当時の状況にも当てはまっていたであろうし、現代にも当てはまる事態である。だが、ここでも間接的にほのめかされているように、現実の不条理さを説き起こすのに、あたかもそれ以前はもっとよい時代であったかのように示されるのは、実は私たちがいま望んでいる理念や規範を一方的に過去の中に読みこんで物語化しているに過ぎない、という点にも注意しなくてはいけない。でないと、本当に深海に棲む化け物のような者達の餌食になってしまうかもしれない。

The Vulgar thus through Imitation err

The Vulgar thus through Imitation err;
As oft the Learn'd by being Singular.
(Pope: Essay on Criticism, 424-425)
(一般の俗衆はこうした模倣によって誤るのにたいし、学あるものは性狷介であるために誤ることが多い)

ポウプは『批評論』の第2部でわれわれの正しい判断を妨げている原因として人間の持つ種々の弱点を取り上げているが、上記の部分は「学あるもの(Learn'd)」が判断を誤る理由として「狷介孤高(Singular)」である事を挙げている。そしてポウプは次のように続ける:
So much they scorn the Crowd, that if the Throng
By Chance go right, they purposely go wrong;
So Schismatics the plain Believers quit,
And are but damn'd for having too much Wit. (426-429)(彼らは大衆を非常に軽蔑しているので、たまたまであれ群集が正しい方向に行くと、わざと間違った方向に自分たちは進む。ちょうど教会分離派の人々が平信徒から離れてしまい結局は知識の持ち過ぎで破滅するのと同じように。)ポピュリズムという一語で人々に歓迎される意見を批判する知識人は多い。しかし、そのとき「自分は大衆とは一線を画す知識人である」という鼻持ちならない自意識が、心の底で蠢いていないだろうか?

Words, words, words.

Words, words, words. (Hamlet. 2. 2. 194)

「殿下、何をお読みで?」
佯狂ではないかと探りに来たポローニアスの質問に対するハムレットの人を食ったような返答である。「言葉、言葉、言葉」しかし人は言葉なしでは生きていけない。言葉を通じて世界を認識し、世界とかかわっていく。昨年暮のNHKスペシャルでリチャード・ドーキンスは「言葉(声)は第二の遺伝子である」と言っていた。人間を進化ヘ導くのも言葉なら、逆に懐疑の夢や破滅の淵へ誘うのも言葉なのである。