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K. Fukao

ブログデザインを変更

"Firefox"をインストールしたので、これで見てみるとこのブログ、デザインがガタガタなのに気づきました。
サイトの方も同じで、メニュー表示に使っていたテーブルがとんでもない位置にずれている。これまではIEだけで見ていたので気づかなかったけれど、Mozillaなどで見たらとんでもないことになっていたんだと知ってデザインの修正を決意して夜のうちに直しました。
サイトの方はIE、Firefoxどちらで見てもずれないように修正したのですが、ブログの方はどちらかでよい位置に来ると、どちらかでずれているといった感じで、全くあちらを立てればこちらが立たないのです。おそらくもう少しCSSを理解して対処すればこんなことにはならないのだろうけれど、急場なのでテンプレにあるデザイン用CSSを借りて理解できる範囲で修正を加えることにしました。ということで、 "#666666" と" #ff4500" でおなじみのデザインではなくなったけれど、それなりに見られるものにはなっていると思います。

Signifying nothing

To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow; a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
---Macbeth (V, v, 19)
(明日、また明日、また明日が
のろのろとした足取りで一日一日を這い進み
歴史として記録された時の最後の一音節に辿り着く。
そして昨日という日は全て、死に向かう馬鹿者どもを
照らしてきたのだ。消してしまえ、つかの間の灯火など!
人生は歩く影法師、哀れな役者にすぎない。
出番がくれば舞台で騒ぎ、はしゃいでいても、
出番が終われば聴かれることなどない。人生は
白痴の話す物語だ。喧噪と怒りに満ちあふれてはいるが
意味などない。)

夫人の死(自殺)を知ったマクベスは、「あいつもいつかは死ななければならなかった・・・」と語った後、この独白を始める。もしこの世界でもっとも有名な独白を無味乾燥にパラフレーズするならば「人生は死へ向かってとぼとぼ歩くもの。人は哀れな役者、生きているうちは大騒ぎしているが死ねば終わり、意味などない」ということになるだろうか。以前に引用した『お気に召すまま』の「この世界はすべてこれ1つの舞台」ではじまるジェイクイズの独白と比べると、用いている比喩の枠組みは似ているのに、醸し出されるイメジは全く異なっていることに驚く。『お気に召すまま』では"one man in his time plays many parts"(そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる)と能動的に演じる役者であった人が、『マクベス』では歩く影法師、哀れな役者にまで落とされている。影法師は本体が動くことによって動くが、これは自ら動いているのではない。本体によって動かされているのである。だからマクベスのいう「哀れな役者」とは自ら演じているのではなく、実は演じさせられている役者のことだ。これを読んだ人は「人生は意味などない」と知って暗い気持ちになったり絶望的な気持ちになるだろうか?私はむしろ元気になる。なぜなら意味などないからこそ、倫理と実践が喚起されるからである。
こんな駄文でも熱心に目を通してくれている学生さんがいて、先日その人と話しているときにちょっと意見がすれ違っているのに気づいた。よくよく話してみると「倫理」という語の意味をお互いに違って使っていたことが分かった。彼女が「倫理=道徳的なもの」ととらえているのに対して、私は「倫理=非道徳的なもの」という意味で使っていたからだ。倫理とはたしかに道徳と一緒にして使われたりするので混同されがちだが、実は道徳とは全く異なるものである。道徳とは共同体によって認められている価値の体系であって、「そうすることがよい」とされている事柄の系である。したがって「道徳的にふるまう」とは、他人によって決められた価値体系に身をすり寄せることを指すのだ。一方、倫理とは「そうすることがよいかどうかは分からないが、私はこれをする」という決断を指す。
意味がある=価値があると分かっていることをするのに何も決断はいらない。しかし、意味がないこと、あるいは弁証論的に意味があると証明し得ないもの、つまり形而上学的な領域に属する問題に立ち向かうとき、人は決断を迫られる。マクベスはここで悲劇的なトーンを湛えつつもこのことを指しているのである。意味などない、ゆえにあらゆる意味を生み出しうる。

nisi navi plena

numquam enim nisi navi plena tollo vectorem
(私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから)
Macrobius, Saturnalia, II, 5, 9-10.

ラテン語である。私がこのテクストに出会ったのはちょうど大学院の2年目で、「古典語」の講座が人文学科の学部生向けに開設されたので担当教員にお願いして参加したときのことであった。
これほど悩んだ一節はなかった(英語も含めて)。辞書を引いて単語の意味は理解できた。文法書を丹念に読んで文のシンタックス(統語)も大丈夫だと思った。つまり、上の和訳はちゃんとできているのである。にもかかわらず、何を言っているのか全く意味が分からなかった。たぶん読んでいる人も「私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから」といわれても意味が分からないと思う。ここでいう意味とは「なぜそういう言説が発生するのか」ということだ。
結局翌週になって担当の先生に上に書いたようなことをぶつけてみるとこうおっしゃった。「これはアウグストゥスの娘が、男出入りが激しかったのに、産まれた子供がみんな夫に(ちゃんと)似ているわけを質問されて答えたものですよ」、と。それでやっと分かった。つまり、妊娠しているときにしか、別の男と寝ないということなのだ。これが分かったときにはあまりにうれしくて普段高くて食べないパリのランチを奮発した。以来私は、訳すことはできてもテクストの背後の意味が分からない状態を「ニシナビプレナ」といって自分を戒める標語にしている。
ここから一つのことが導かれた。英語を含む外国語であれ母国語であれ、「分からない」というとき3つの段階に分かれると。
一つは、単語が分からない状態である。この状態の対処法は一つ。辞書を引くか、知っている人に訊くことである。
二つ目は、単語は分かるけれどそれらがどのようにつながっているのか分からない、つまり統語が理解できない状態である。この場合は、分かっている人に訊くのが一番速い。
最後に、単語も統語も理解できるのにそれが何をいっているのか皆目分からない状態(私のいう「ニシナビプレナ」)である。このときは、それを知っていそうな人に訊くのが近道であるが、訊いたところで分からないときもある。たとえば上の一節を私が小学生で、セックスのセの字も妊娠にメカニズムも知らないときに読んで先生の説明を聞いたとしても分かるわけがない。こういうときにいまの学生はどうするのだろう?「習っていない」といって開き直り、「教え方が悪い」といって責任を転嫁するのだろうか?それともセックスのセの字ぐらいは知ろうと、赤ちゃんができる神秘ぐらいは知ろうと教員に食らいついたり、自分で勉強しようとするのであろうか?少なくとも、後者でなければ大成する見込みはないと思う。
しかし、もっと心配なことがある。それは「私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから」と日本語に直した時点で安心してテキストも辞書も、そして思考回路も閉じてしまうことである。そしてそういうタイプの学生は年々増えているような気がするのである。

the bridge I crossed

The bridge of Cherokee, that's the bridge I crossed. . . .
                        (Bird)
(俺が渡ったのは、チェロキーのブリッジ(橋)だった)

001.jpeg

映画『バード』の中で、パーカーはバップのアイデアが実現したときの瞬間をこのように語る。ブリッジに二重の意味(「橋」と曲の「Bメロ、サビ」」)をかけている所が洒落(word play)になっているわけだ。
しかし、これは創作ではないだろうか?よく引用されるのは、以下のようなもっと「散文的」なインタビューである。
I kept thinking there's bound to be something else…. I could hear it sometimes, but I couldn't play it. Well, that night I was working over "Cherokee," and as I did I found that by using the higher intervals of a chord as a melody line and backing them with appropriately related changes, I could play the thing I’d been hearing. I came alive
(もっとなにか別の方法があるのだと、ずっと考えていた。その何かとは、時折聞こえてはいたけれどまったく演奏できないものだった。その晩、俺は「チェロキー」をやっていて、コードの上のほうの音をメロディーラインに用いて、それに沿った関係コードでバッキングする事を思いついた、するとずっと頭の中で聞こえてきたものを音に出す事が出来たんだ。それで俺は生き返った)。

もちろん映画の事だから脚色もあるだろうし、鮮烈な表現という点なら「ブリッジを渡る」ほうがすぐれていると思う。

でもその一方で、この映画ではパーカーがロックンロールを低い音楽として見下しているかのようなシーン(「なんでB♭だけなんだ!?」)があるが、現実のパーカーはどうだったんだろう?

They teach you there's a boundary line to music. But, man, there's no boundary line to art.
(音楽には境界線があるとよく言われる。でもな、芸術には境界線がないんだよ)

Our knowledge has made us cynical

We have developed speed, but we have shut ourselves in.
Machinery that gives abundance has left us in want.
Our knowledge has made us cynical; our cleverness, hard and unkind.
We think too much and feel too little.
--Chaplin. The Great Dictator.
(私たちはスピードを発達させてきたが、かえってその中に自らを閉じ込めてしまった。
豊かさをもたらしてくれる機械が私たちを欠乏に突き落としている。
知識のために私たちは皮肉屋になり、利口になった分、非情で冷酷になっている。
私たちは考えすぎて感じることがあまりに少ない。)

dictator.jpeg
チャップリンの映画『独裁者 』の最後の演説の一部である。こういった対照法(antithesis)はポウプに頼めば手際よく処理してくれるかもしれないが、それではこの表現の直接性が失われるかもしれない。
初上映から65年。まったく色褪せていないことにむしろ驚かされる。いや、ますます現実味、そして凄みすら帯びてきている。いまこそ、チャップリンなのではないだろうか。

いまいちブログの調子がよくない・・・

どういうわけか、新しい記事を投稿すると前の記事がランダムに消えてゆく現象が起こる。仕方がないので、いったん全エントリーを書き出して消去し、再び読み込みをおこなった。どうなったかはいまいち分からないが、タグが全部文字変換されてしまい、みっともないこと夥しい。こつこつ直すが手が回りきらず、あきらめて日記を書いている。

ブログを変更しました

ブログを変更しました。
一見するとデザインを変更しただけのように見えるかもしれないですが、実はブログのスクリプトそのものをホストサーバーに置くようにしました。いま流行のMovable Typeというソフトです。私も詳しいことはよくわからないのですが、マニュアルどおりインストールしていったら、何とか使えるようになりました。これまではどこのブログが一番使いやすいか試していましたが、Yahooは夜になると絶望的に重くなるし(最近のことです、一説には青木さやかの「ブログタイプ」というお笑い番組の影響だといわれています)、ライブドアはどういうわけか「著作権」がライブドアのものになるという規定があるようなので忌避しました。これまで使っていたのはアーカイブをホストに置けるblogger(googleのblogサービス)でしたが、ここは記事を書くための「ダッシュボード」というのがいやになるほど遅かった。もちろん、あらかじめエディターなどで書いてからコピー&ペーストしているのですが、ちょっとしたところを手直ししようと思うと大変なことになりました(笑)。
ライブドアにあってブロガーにはなかった、「カテゴリー」機能も装備されています。ブロガーにはこの機能がなかったために、授業の告知を書いた後、何か記事を追記すると、学生さんが見づらいんじゃないかと思って控えていました。授業のカテゴリーはclassです。
デザインも、かなり細かくいじれる(というかほぼ一から書き上げられる)ため、ウェブサイトと統一感をもたせてみました。かえって見づらい、うちのパソコンじゃがたがたのデザインになるなどご意見、ご質問があったらメールでお知らせください

All the world's a stage

All the world's a stage,
And all the men and women merely players.
They have their exits and their entrances,
And one man in his time plays many parts,
His acts being seven ages.
--As You Like It (II, vii, 139-143)
(この世界はすべてこれ1つの舞台
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる、
年齢によって7幕に分かれているのだ。)

放蕩者のジェークイズが哲学者に変わる瞬間である。ここにはマクベスの"walking shadow, a poor player"のような暗い影は差していないが、それでもこれに続く台詞はリアリスティックで非情だ。結構長いのでここには引用しないが興味のある人は原作を読むとよいだろう。

この「世界は舞台」「私たちは役者」という思想は、生命や人生をメタな視点から見つめる足場を提供してくれる。しかし、この足場はあくまで倫理的なものであり、上のような考え方をすれば誰でも獲得できるような生易しいものではない。私の尊敬する詩人がかつてこう歌った。「君よ一生を劇の如く」。劇のような一生を送り、送りながらそれを劇であると理解して悠々と見下ろせる足場、これは実践的にしか獲得し得ないものだ。

The wrinkled sea beneath him crawls

He claps the crag with crooked hands,
Close to the sun in lonely lands,
Ring'd with the azure world, he stands.

The wrinkled sea beneath him crawls,
He watches from his mountain walls,
And like a thunderbolt he falls.
           (Tennyson; The Eagle)
(彼は絶壁の岩を、鍵爪のついた手でがっちりと掴んでいる。
孤独な島々において太陽のちかく
蒼穹の世界に取り巻かれながら、彼は佇む。

眼下には皺うつ波が這っている、
彼は崖の頂きからそれを眺め、
雷斧の如き速さで急降下する。)

テニソンの詩「鷲」である。この詩は良い悪い以前に詩の教科書にうってつけの諸要素を備えている。一部で破格するものの全体が「弱強格四音歩(iambic tetrametre)」の三行連(triplet)であること、冒頭の音の様子がごつごつした岩場を表すような音であり、いわゆる音象徴の性質が強いことなど。しかしとりわけ私が注目しているのは「眼下には皺うつ波が這っている」という四行目である。

私の尊敬する桂冠詩人がかつてこう言った:「詩とは分析に対する総合であり、いままで出会いもしなかったような言葉がそこではじめて出会う」と。「皺(wrinkle)」と「海(sea)」、そして「這う(crawl)」という語は一緒に使われる機会の少ない語で、おそらくここで初めて出会ったのであろう。だがどうだろう、鷲の視点から見れば眼下の海は波打つのではなく皺がよって這っているように見えるのではないか。

Cowards die many times before their deaths

Cowards die many times before their deaths,
The valiant never taste of death but once.
--Julius Caesar (II, ii, 32-37)
(臆病者は死ぬ前に何度も死ぬ思いをするが
勇者が死を味わうのは一度きりである)

昨晩、テレビで映画『ジュリアス・シーザー』をやっていたが、シェークスピアのそれではなくて史実にのっとったものであった。シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』はプロットが凝縮され一貫しており、ブルータスとアントニーの対照的で印象的な演説があるため英語圏の学生が最初に読む「シェークスピア」となっている。上に引用した一節は様々な凶兆を気にして、登院を思いとどまるようシーザーに懇願する妻キャルパーニアに向かって彼の述べた台詞である。この後、キャルパーニアがあまりにしつこくせがむので一旦は元老院行きを思いとどまるのだが、暗殺者の一味ディーシャスに上手く言いくるめられて登院し、そこで暗殺されることとなる。

臆病者が死ぬ前に何度も死に、勇者は一度しか死を味わわないというのは、臆病者は死を恐れるあまり死にそうな気持ちになる事が多いのに対して、勇者は死を恐れぬために死を味わうのは死ぬときだけだという意味である。ダンが死に向かって呼びかける「死よ、驕るな!」でも同様のロジックが展開されている。私は自殺する人の気持ちがわからない。むかしあるニュースキャスターが「自殺する勇気があるなら生きていけるはずだ」と言ったそうだが、自殺は勇気を持って行うものなのだろうか?むしろ、何度も迎える死に対する恐れから臆病者が起こす事なのではないだろうか?

どうせ死ぬのに、なんで死ぬのか分からない。