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K. Fukao

ディケンズ 『我らが共通の友(全3巻)』 (ちくま文庫)

我らが共通の友

現代のように様々な娯楽や情報がなかった時代に書かれた文学は、時に背表紙を見ただけでたじろいでしまうような厚さのものがあります。トルストイやドストエフスキーなどロシア文学、今回紹介するディケンズやサッカレーのようなビクトリア朝文学などにその傾向が強いと思います。しかし、厚さと読みやすさというのは当然のことながら無関係で、フランス系実存主義文学などでページ数が少ないからと安心して読み始めると、難解な言い回しの連続で、読み終えるのに3日ぐらいかかることがあります。かと思うと反対に、勇気を出して長編小説を読み始めたら、内容の面白さやテンポのよさに惹きつけられて一晩で読み終えてしまい、翌日寝不足でつかいものにならなくなることだってあります(笑)。この『我らが共通の友』も一晩がかりで読み終えて大きな感動を得た小説です。

実はこの作品、もともとは原書を訳者の間先生のゼミで読んだのですが、原書であるということや1年で読み終えるように抜粋を読んでいったこと、それと専門の英詩ではなく散文であるということでかなり手を抜いて下読みしていたためあまり筋を理解しないまま1年を終えてしまいました。この翻訳が出版されたとき間先生からいただいたのをきっかけに、改めて読み直し大きな感動を持って読み終えました。

本書のテーマは、ずばり「金」と「欲」です。最近の日本でも資本制を「市場経済」などと言い換えて中性化し、その便利な言葉を旗印にずいぶん下品ではしたない意見が平然と語られていますが、この小説もまさにそのようなはしたない時代のロンドンを舞台としています。ゴミ屋で産を成した父親の死にともなってアメリカから帰国したジョン・ハーマンが何者かに襲われ、テムズ川で死体となって発見されます。行き場を失った遺産(ゴミの山)は使用人であったボフィン夫妻のものとなります。そこへロークスミスと名乗る男がやってきて秘書として雇われますが、やがてベラという女性(彼女は本来、遺言によりハーマン氏と結婚することになっていた)と恋に落ちます。

一方、川底浚いの娘リジーと弁護士ユージン、小学校教師のヘッドストーンとの三角関係がそれと平行して語られます。最後に、あるものは死を迎え、またあるものは悪事を暴かれ、あるいはゴミの山に放り込まれ、またあるものは真の愛を手にしてクライマックスを迎えます。もっと細かく書いてもいいのですが、この小説はミステリーの要素も含まれているため、あまり詳しく書いてしまうとネタばれになるので曖昧に紹介しておきます。

私はディケンズをすべて読破したわけではないので、これが一番であるとかどれが一番であると言うことは出来ません。しかし、これが社会風刺や道徳的良心、心理描写や人物描写にすぐれた作品であることは疑いありません。その上にミステリーの要素まで含まれているので、はまってしまえば一日や二日で読んでしまうでしょう。夏休みの読書として薦められる一冊です。

平井正穂編 『イギリス名詩選』 (岩波文庫)

イギリス名詩選

保育園の頃から落ち着きなく出歩き、小学校の通知票の「生活態度」欄(こんな内面に踏み込むな、、と子供の頃から思っていました)では6年間「落ち着き」が最低評価。目に付くもの、興味が沸いたものに何でも飛びつき、高校の時に知った "Jack of all trades, and master of none"(訳す気にもなれない)は自分のことだと悟って開き直って生きてきた私が運営するサイトだから仕方がないのかも知れないけれど、まぁショックな出来事がありました(笑)。ある学生さんからの質問:「先生はジャズミュージシャンでアメリカ生活をしていたから、英語を教えているんですか?」

・・・

まぁ、たしかにこのサイトも英語や文学よりも、ジャズの方に力を入れているきらいがあるから仕方ないかも知れないけれど誤解ですね。私は英文学者です。それも18世紀の古典主義詩人の研究。ジャズなんか聴いている暇があったらハンデルやモーツアルトのシンメトリカルな構成でも聴いていればいいのかも知れませんが、とにかく18世紀プロパーです。そんな意味で、今日は英詩のアンソロジーを紹介しておきます(笑)。

英詩のアンソロジーというとパルグレイヴのGolden Treasury が有名ですが、本書もそれに負けないほどすぐれた詩集です。手に取れば分かることですが、ページの左側に原文が、右側に対訳の日本語が載っています。英語が全く分からないなら仕方ありませんが、不得意だという程度の人なら対比して読めるようになっています。また脚注もうるさくない程度に付いているので詩の理解を助けてくれると思います。

詩の構成は、比喩やイメジのような意味的要素と、韻(rhyme)やリズム(rhythm)のような韻律をはじめとして用いられている語音が生み出す楽音的な要素が結合して成立するので、いつまでも訳で詩を読んでいたのでは正しい理解にいたらないと思います。この詩集は19世紀のロマン主義一辺倒ではなく、イギリス・ルネサンスからシェイクスピア、ミルトンを経て、ドライデン、ポウプ、グレイ達も取り上げられ、一方で現代の詩人にもかなりのページを割いているのでバランスがよいと思います。本詩集を読んで気に入った詩人を見つけたら、同じく岩波から「イギリス詩人選シリーズ」という個々の詩人を取り上げたアンソロジーが出ていますからそちらをご覧になるか、私に直接質問して下さい。お答えできる範囲でお答えしたいと思います。

アーサー・K.Jr. ウィロック 『フェルメールとその時代』 (河出書房新社)

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The Universe of English (下記参照)の冒頭は絵画論で、テーマは16-7世紀のオランダ絵画でした。その中でももっとも有名なのがこのデルフトの画家ヨハネス・フェルメールです。本書は2000年(日蘭交流400周年)を記念して開かれた「フェルメール展」の図録です。大判のわりに安いのでネットで購入しました。

フェルメールが活躍したのは17世紀のオランダ。デカルトをして砂漠と言わしめた資本制の発祥地です。したがってフェルメールの作品に描かれているのは、当時勃興しつつあった資本制を背景とした「家庭」の姿と、プロテスタント的な倫理観を伺わせるような、禁欲的で静謐な世界です(興味深いことに、フェルメール自身は最初プロテスタントでしたが、妻との結婚を機にカトリックに改宗したといわれています)。

日本では印象派の絵画に人気が集まっているせいか、絵は「鑑賞するもの」「見て感じるもの」という側面が重視されますが、西洋ではルネサンス絵画はもとより、オランダ絵画や印象派においてすら「読み解くもの」「読んで理解するもの」という側面が同じように重視されています。それは図象学的な興味だけでなく、歴史的な引喩や時には数秘学的なメタフォーすらも読解の対象となります。本書ではフェルメールの全作品と、同時代の画家達の作品を何点か載せ、それを様々な角度から読み解いています(なぜかフェルメール以外の作品の方が大きく掲載されているんですよね・・・)。もしこの本をみてフェルメールに興味が沸いたら次に紹介する本も推薦できます。

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フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡』(NHKブックス)は小林頼子氏が書いた本で、吉田秀和賞を受賞したすぐれた美術評論です。フェルメールの生涯から説きおこし、構図の工夫や遠近法の推移と発展といったザッハリヒな評論を経て、風俗画を中心に歴史と文化、社会の問題に言及しています。そして死後における受容の変遷と真贋問題を最後に取り上げ、まさに「過不足のない」フェルメール論となっています。よく考えると、むしろ最初にこちらを読んだ方がいいかもしれませんね。美術のみならず、西洋社会史やキリスト教、あるいは文学に興味のある人も目を通すべき一冊だと思います。

『泣くものか―作文集』 養護施設協議会(亜紀書房)

先日警察庁から昨年一年間の児童虐待死が報告されましたが、49件ということでした。この数が多いか少ないか私には分かりませんが、少なくとも死に到らない虐待の数は相当なものに上ると思います。

本書はもう30年も前の昭和50年代にまとめられた、施設児童による作文集です。親の虐待や育児放棄などによって施設に入所した子供達の生の声が聞こえてくるような一冊です。時代の違いがあって「昔は経済的な貧困による虐待が多かったが、今は豊かな時代なのに精神的な貧困から虐待が発生する」という言い方がよくされますが、それはちょっと違うのではないかと思います。現実的な貧困と「貧困感」は違います。昭和50年代といえばまだ日本は総じて貧乏でした。したがって貧乏であってもそれほど「貧困感」は感じなかったように思います。うちも貧乏でしたし。一方、現在は小金持ちと貧乏人とに分裂した格差社会になりつつあります。こうなると、人間の貧困感というのは増大するわけです。なぜなら、何度でも言うように「欲望とは他者の欲望」なのですから。

一般に虐待は遺伝すると言われます。虐待を受けて育った子供は自分の子に虐待をすると。わたしはこういう言い方もどうかなと思います。心の問題は関数の問題と違って「Aすれば必ずBとなる」わけではないのですから。むしろBという結果からAという原因が事後的に導かれるに過ぎない。これを構造論的因果論といいます。しかし、テレビによく出てくる心理学者などはこうしたことをすっ飛ばして、「こうすればこうなる」風のことを吹聴しています。これではもはや占いや予言のたぐいであって、心理学者も細木数子も大した違いはなくなります。さらに、「心は影響を受ける」という側面も見逃せません。「虐待されて育った子供は虐待する」と言われ、それを気に病んでノイローゼになって虐待に走ってしまうということだってあるのではないでしょうか?

と、本書にはあまり関係のないことを語ってしまいましたが、これが書かれて編纂された頃は、まだ今のように「アダルト・チルドレン」という概念などが作られていなかった時期のものです。タイトルも「泣くものか」です。今なら「泣いてもいいんだよ(人間だもの)」風のタイトルにされてしまうでしょう。しかしながら、この古い作文集、なかなかに手強い内容で、ここで語られていることは普遍的な問題であるような気がします。

椎名誠 『哀愁の町に霧が降るのだ(上下巻)』 (新潮文庫)

哀愁の町に霧が降るのだ
椎名誠を最初に読んだのは、大学4年生の時、親しかった後輩から薦められたのがきっかけでした。たしか『インドでわしも考えた』だったと思います。なぜならば、当時「印度天竺文化研究会」(通称「印天文」)を作ろうなどと騒いでいて、ならば一冊インド物を読もうという話になったからです。しかし、読むべき本がガンジーでもなければ堀田善衛でもないところからも分かるとおり、単なる冗談でした。たぶん動機も「インドは美人が多い」とかなんとか、そういう不純なものだったはずです。

こうした不純な動機で作ろうとした印天文は単なる空騒ぎに終わったのですが、私はここ(『インドでわしも考えた』)にちりばめられている言葉に魅せられてしまい、ズルズルと椎名誠にはまっていくことになりました。今回取り上げる『哀愁の町』はエッセイ風味の小説で、詩と真実が上手いぐあいにミックスされている秀作です。その頃ちょうど、滝山寮時代の馬鹿馬鹿しくも面白い出来事を綴ろうと考えていた私は、「なんだ、こんな感じで書けば簡単じゃないか!」と早とちりして早速筆を執ったのですが、まったく読むと書くとでは大違い、全然「こんな感じ」には書けないで苦労した思い出があります。

最近ではあまり見かけなくなったボロいアパート「克美荘」を舞台に、椎名をはじめ沢野ひとしや木村晋介ら、のちに怪しい探検隊として有名になる「東ケト会」メンバーによる若き日の共同生活がヒューモラスに、そしてなんとはなしの懐かしさや哀しさを含んで描かれています。だから哀愁なんでしょう。この読後感、何かに似ていると思っていましたが、映画『スタンド・バイ・ミー』なんですね。スタンド・バイ・ミーは少年たちが主人公でしたが、こちらは思春期をそろそろ越えた男達。でもやっていることはなんか似通っているんですよね、ほとんど進歩がないのかもしれません。仲間さえいれば、若さにまかせて何でもできる、そんな青春のおはなしです。

能登路雅子 『ディズニーランドという聖地』 (岩波新書)

授業で話をしたり、レポートやログを集めたりしていると痛感するのですが、今の学生達は「ディズニー」という言葉に対して敏感に反応、しかも肯定的に反応する人が割と多いですね。先日の授業でも左翼系の学術誌New Internationalistの記事を読んだのですが、レスポンスが非常に多くありました。今回紹介するこの一冊はThe Universe of Englishの中の一編 "Disneyland: America's Sacred Land"の元となった本で、どちらも能登路先生が書いたものです。おそらく英文の方は本書を簡約し英文で書き下ろしたものなのでしょう。平易な筆致で語りながら、しかしディズニーランドの持つ文化的・国家的意義を説得力豊かに描き出しています。

この本を楽しいディズニーランドガイドだと思ったら大間違いです。またディズニー賛美の本でも決してありません。むしろ、ディズニーランドの持つ政治的、文化的なイデオロギー性、大衆操作やイメージ形成の戦略を克明に分析した一級のディズニー批判です。しかしこの本に惹きつけられるのはなぜでしょう?そこには、自ら理解したことを、よけいな概念やイデオロギーを押しつけることなく誠実に書いている著者の誠意が見えるからではないでしょうか。

一般に、身近な話題から文化論・文明論を展開する本の中には、途中で信じられないぐらいの論理の飛躍があったり、唐突に難しい学術用語がでてきて煙に巻かれたと思ったら、あれよあれよという間に牽強付会な結論に辿り着かされていたりというものがあります。かと思うと反対に、すっきりと筋は通っているんだけれど、出された結論を読んでも「それで一体どうしたっていうの?」とこちらが訊きたくなるような、毒にも薬にもならないどうでもよい話題を展開しているものもあります。しかし本書は等身大の話題から出発し、よけいな中間概念を駆使することなく話を展開し、毒にも薬にもなるアメリカ文化論に到達します。素材と形式、そしてテーマが見事に合体したすばらしい文化論だと思います。

こういう書物を読むとき、そのテーマや結論を云々する以前に、ここで実演されている「知の技法」に目を向けるべきだと考えます。ディズニーランドをどう思うか、ディズニーランドとは何か、という点で著者と読者の意見が食い違ってもいいし、食い違うのは当然のことです。しかし学問研究の手続きは共通のものですし、開かれたものです。今は忙しいでしょうけれど、夏休みに入ったら著者の手法や誠実な論理の展開に注意を払いながら、じっくりとこういう本を読んでみたらどうでしょう?得るものは大きいはずです。

カント 『啓蒙とは何か』 (岩波文庫)

カントのもたらした比類なき転回とは、それまで迷信のようなものが理性の正しい使用を妨げ、その結果人は誤ると考えられていたものを、むしろ理性そのものの中に誤謬の原因があると指摘したことでした。これが一般的な「啓蒙思想家」達とカントという一人の思想家との決定的な違いです。このことを行ったのは『純粋理性批判』という大著においてでしたが、もう一つそれに匹敵するほどの大転回を成し遂げているのがこの『啓蒙とは何か』です。

一般に私たちが「ホンネと建前」というとき、ホンネというのは私たち自身の直接的な思いであり、一方建前とは共同体の一員としてそういわざるを得ないような嘘を指すことが多いわけです。したがって、ホンネとはプライベート(私的)な思い、建前とはパブリック(公的)な思想である、このように私たちは漫然と考えているわけです。

カントはこれを鮮やかに転回してしまいます。

自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい(中略)ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、---公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。

これは当然、学者の特権をいったのではなく、一人の人間が職業人として発言する場合には私的(プライベート)な発言であるが、一人の人間として発言する場合には、それは公的(パブリック)な発言である、という意味である。これは私たちの抱く「プライベート?パブリック」とは全く逆向きの発想ではないでしょうか?

たとえ会社のことや世間のことをおもんぱかって「建前」を並べ立てても、それはあくまで会社や世間(あるいは国家)という私的共同体のプライベートな価値基準にすり寄ったに過ぎない、それに対して一個の人間として理性を(何ものにも妨げられることなく自由に)使用することは、パブリックに考えることであるというのがカントの言っていることなのです。それに対して私たちがいうホンネとは、理性を使用していない状態、自由とは反対に自分の欲望に(そして欲望とはヘーゲルがいうように実は常に他者の欲望です)隷属している状態に過ぎないのです。私たちがこの本から学ぶべき大切なことは、一個の人間として自立して考えることであり、そのためには「勇気」が必要であるということです。そしてカント自身が、まさにここに書かれているように自立して、パブリックに考えたことを問うていることが私たちを感動させ、勇気を与えるのです。真に勇気づけられる書物というのはこういうものを指すのだと思います。

東京大学教養学部英語教室 The Universe of English (東京大学出版会)

二年ほど前までは、ほとんど毎年といっていいほどこの書物をテキストとして使用していました。数年間、この続編というかリニューアル版The Universe of English 2を使ったこともありましたが、2は1の持っている魅力を嘘のようになくしてしまい、悪い本ではないもののふつうのアンソロジーになってしまったのは不思議に思えます。1を編むときに漲っていた未聞のプロジェクトに取り組むワクワク感やグルーヴ感が、2では自動化され、ルティーン化されてしまったのでしょうか。それとも1を越えなければという意識が、かえって力みになってしまっていたのでしょうか。

Part 1冒頭の絵画論から既に魅力いっぱいです。オランダの画家デ・ヴィッテとフェルメールの作品をもとに17世紀のオランダ---デカルトのいう砂漠---で発達した資本制とそれに伴う家族の変容が彼らの絵画の上にどのように表れているかを、簡潔な文体で分析されています。

以降「分離脳研究」から分かった右脳と左脳の働き、ベイトソンの名著から視覚像形成のプロセス、ばい菌と食べ物の戦いと続き、本書で最も重要だと思われる「エッフェル塔」の一編にいたります。この「エッフェル塔論」はバルトが下敷きになっていると思われますが、ハイデガーやショーペンハウエルらの思想がちりばめられ、近代批判のテクストとしても読解が可能な多重的なものです。自分で読むのも大変なら、他人にここに書かれていることを伝えるのはまして大変なことですが、それだけに相手に伝わったと感じられたときには一種のグルーヴ感が生まれるんですね。

Part 2以降も、「宇宙論」「進化論」「労働市場の発生」「ディズニーランド」「縮み志向の日本人」等々刺激的な文章にあふれています。毎日英字新聞を読むのは大変だ、一冊の小説を読み通す根気がなかなか続かないと考えている人は、この本を読んで英語の勉強に再挑戦してみてはどうでしょうか。

板坂 元 『考える技術・書く技術』 (講談社現代新書)

著者の板坂先生は短大で副学長をされていたのですが、私にとっては文章作成法の恩師です。先生の授業で用いたテキストがこの『考える技術.書く技術』でそれまで中学・高校と「心に浮かぶことを書きなさい」「自由に考えて書きなさい」と作文教育をされてきた私にとっては鮮烈な印象をもたらす本でした。先生の授業と翌年のテッド・ミラー先生の英語表現演習のふたつが私にとって作文技法の原点であり、今でも文章を書くときはこれらの授業で学んだことをイメージしながら書くことが多いのです。

本書では発想法から情報収集と、カードを使った情報の整理法。そして最後にカードからの脱出が手際よく説明されています。しかしこの本でもっとも興味をそそられ、そしてもっとも大きな影響を受けたのは「黄色いダーマトグラフ」と「京大式カード」の下りです。ダーマトグラフというのは鉛筆削りのいらない色鉛筆で、現在のマーカーのような使い方をするものでした。もちろん当時から蛍光マーカーはあったのですが、文庫などに使うと裏側に抜けるのでこのダーマトグラフを用いたわけです。詳しくは三菱鉛筆「鉛筆なんでもQ&A」を見てもらえれば分かると思います。これは私のみならず、私の周りでも結構流行していました。むかし自分が読んだ本を見返すと、ところどころ黄色い線が引かれていて当時のことを思い出します。

京大式カードとはB6サイズの横型カードのことで、ここに思いついたことを書き込んではボックスに投げ込んでいき、ある程度たまると整理するのですが、そのとき見出しの立て方が悪いと非常に苦労するわけです。そこで本書では「逆ピラミッド型」「動詞を含む短文を見出しに使う」といったふつうとは逆の発想でカードを整理する方法を薦めています。

「文章の書き方」「論文作成法」のたぐいは現在巷にあふれかえっていますし、もっと実用的でほとんどプログラムのような体裁のものも出ています。しかし、本書はそれら実用書とは一線を画した古典的なたたずまいを備えた本です。読み物としてもおもしろいことがその印象をいっそう強くしています。続編もありましたが、現在絶版のようです。

ホメロス 『イリアス(上下)』 (岩波文庫)

テニスンの邦訳で有名な入江直祐先生はいい意味での教養人で、学術論文のたぐいはほとんど書かないものの、若い頃は芥川龍之介に気に入られ、その西洋文学に対する造詣の深さはでは人後に落ちない方でした。この先生がお辞めになった頃から、大学にも教養人のいる場所が徐々に少なくなり、いまではアメリカ風の "Publish, or perish"(出版せよ、さもなければ消えよ)という殺伐たる成果主義と、財界におもねったような中途半端な実用主義に陥って、幅の広い話を聞く機会が減ってしまったのは時の流れとはいえ残念なことです。

ある時先生に「まず絶対に読んでおかなければならない作品は何でしょう?」と伺ったことがありました。先生は即座に「ホメロス、ダンテ、シェイクスピアだね」。それだけおっしゃると、後はニコニコしておられる。入江先生はそういう方でした。自分で読んでみて、なぜそうなのかは自分で理解せよということだったのでしょう。

『イリアス』はいまから2700年前に成立した叙事詩で、それまで口承で伝えられていたものをホメロスが文字に表したといわれています。舞台はトロイア戦争末期。ストーリーについては「トロイア戦争」を調べ、「パリス」「ヘレネ」「アキレウス」「アガメムノン」「ヘクトル」らの名前とあらすじを頭に入れてから読んだ方がいいでしょう。口承文学をルーツにもつため「脛あてよろしき」アカイア人とか「口前の甘い」ネストアーといった枕詞が煩いほどにつけられていて筋が分からなくなってしまうからです。特に私たちの頃は呉茂一氏の訳が一般的で、原文の風味を強く残した名訳といわれていましたが、その分読みづらいところもありました。一方、上にも紹介した岩波版は散文による新訳で、冒頭には各章の梗概がつけられているなど読みやすくなっているようです。

人間の争いと平行して、神々も二派に分かれて争う。それどころか、人の争いに油を注いだり、火をつけて回ったり散々な神様達と、身勝手な英雄達が跳梁跋扈する叙事文学。ニーチェがある種の憧憬をもっていう「強いことがすなわち正義であった時代」を舞台とする、現代の目から見ればかなり破天荒な叙事文学をいつかタイミングを見つけて読んでみてはどうでしょうか。