ホメロス 『イリアス(上下)』 (岩波文庫)

テニスンの邦訳で有名な入江直祐先生はいい意味での教養人で、学術論文のたぐいはほとんど書かないものの、若い頃は芥川龍之介に気に入られ、その西洋文学に対する造詣の深さはでは人後に落ちない方でした。この先生がお辞めになった頃から、大学にも教養人のいる場所が徐々に少なくなり、いまではアメリカ風の "Publish, or perish"(出版せよ、さもなければ消えよ)という殺伐たる成果主義と、財界におもねったような中途半端な実用主義に陥って、幅の広い話を聞く機会が減ってしまったのは時の流れとはいえ残念なことです。

ある時先生に「まず絶対に読んでおかなければならない作品は何でしょう?」と伺ったことがありました。先生は即座に「ホメロス、ダンテ、シェイクスピアだね」。それだけおっしゃると、後はニコニコしておられる。入江先生はそういう方でした。自分で読んでみて、なぜそうなのかは自分で理解せよということだったのでしょう。

『イリアス』はいまから2700年前に成立した叙事詩で、それまで口承で伝えられていたものをホメロスが文字に表したといわれています。舞台はトロイア戦争末期。ストーリーについては「トロイア戦争」を調べ、「パリス」「ヘレネ」「アキレウス」「アガメムノン」「ヘクトル」らの名前とあらすじを頭に入れてから読んだ方がいいでしょう。口承文学をルーツにもつため「脛あてよろしき」アカイア人とか「口前の甘い」ネストアーといった枕詞が煩いほどにつけられていて筋が分からなくなってしまうからです。特に私たちの頃は呉茂一氏の訳が一般的で、原文の風味を強く残した名訳といわれていましたが、その分読みづらいところもありました。一方、上にも紹介した岩波版は散文による新訳で、冒頭には各章の梗概がつけられているなど読みやすくなっているようです。

人間の争いと平行して、神々も二派に分かれて争う。それどころか、人の争いに油を注いだり、火をつけて回ったり散々な神様達と、身勝手な英雄達が跳梁跋扈する叙事文学。ニーチェがある種の憧憬をもっていう「強いことがすなわち正義であった時代」を舞台とする、現代の目から見ればかなり破天荒な叙事文学をいつかタイミングを見つけて読んでみてはどうでしょうか。

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