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K. Fukao

Mom and Pop were just a couple of kids

Mom and Pop were just a couple of kids when they got married.
He was eighteen, she was sixteen, and I was three.
--Billie Holiday (Lady Sings the Blues)
(ママとパパが結婚したとき、二人はまだほんの子供だった。
パパは18、ママは16、私は3つだった。)
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ビリー・ホリデイの自伝Lady Sings the Blues(邦題『奇妙な果実』)の冒頭である。だが、敢えて言えば二人は結婚はおろか同棲もしていなかった。そしてクラレンス・ホリデイも、実は彼女のパパなどではなかった。

「私生児として生まれ、幼い頃から売春婦として働かされ、歌で成功するも人種差別の辛酸を舐めさせられ、酒とドラッグにおぼれ、恋に破れるジャズシンガー」ビリー・ホリデイを描いたこの「自伝」は、だが実際には自伝などではなくゴシップ記者のウィリアム・ダフティーが扇情的に誇張し捏造して作り上げた質の低いゴシップ記事なのである。しかし、彼やその妻メイリー・ダフティー(フロー・ケネディーをして「彼女の寄生虫」と言わしめた人物)にだけその責任があったわけではない。読者や聴衆もまた「そういうビリー・ホリデイ」を読みたがり聴きたがったのだ。そして不思議な(というかもっともな)ことに、彼女自身がそのイメージを受け入れ、今度は積極的にそれを追い求めるようになった。「ビリー・ホリデイの伝説」とはそれを求める聴衆の欲求と、演出する芸能界という装置、そしてビリー自身という素材が複合して出来あがったものなのだ。

I hate ingratitude more in a man

I hate ingratitude more in a man
Than lying, vainness, babbling, drunkenness,
Or any taint of vice whose strong corruption
Inhabits our frail blood.
             (Twelfth Night 3. 4. 338-341)
(私はなによりも、人間の忘恩を憎みます。
嘘をついたり、見栄を張ったり、無駄口を叩いたり、酒に耽ったり、
私たちの弱い血の中に棲みついて強い悪影響を及ぼす、そのほかのどんな
邪悪の汚点よりも。)

ヴァイオラは忘恩をその他の汚点と比べてもっとも憎むといっているが、面白いことに忘恩の人というのは「嘘吐き」で「見栄っ張り」で「無駄口」ばかりで「酒浸り」なことが多い。つまり忘恩は必ずその他の汚点を伴って現れるものなのだ。年中嘘偽りを言い歩いているけれど恩を知る人とか、正直で謹厳実直な忘恩の輩というのは聞いたことがない。

詩人は別のところでもこう言っている。

I (am rapt, and) cannot cover
The monstrous bulk of this ingratitude
With any size of words. Timon of Athens. 5. 1. 62-64)
(この途方もない忘恩は、どんな数の言葉を
用いても、覆い隠す事など私には出来ません)

忘恩の人は、その忘恩ぶりを覆い隠すために嘘や作り話で自分を飾り立てている。しかし時がたてばそれらの嘘や作り話は剥げてゆき、真実が明らかになる。

Let it go naked: mem may see't the better. (5. 1. 65.)
(ならば、裸にしておけ。そのほうが人もよく見えるだろうから)

時が忘恩を丸裸にするまで待ってもいい。だが、その間に騙された人々は気の毒である。忘恩とは戦う必要がある。

Nature to all things fix'd the Limits fit

Nature to all things fix'd the Limits fit,
And wisely curb'd proud Man's pretending Wit:
As on the Land while here the Ocean gains,
In other Parts it leaves wide sandy Plains.
--Pope. An Essay on Criticism. 52-55
(自然の女神は全てのものに、ふさわしい限界を設け、
高慢な人間の思いあがった知恵を賢くも抑えた。
ちょうど大陸で、こちら側では大海が侵食し
別の場所では広い砂浜が広がっているように)

ポウプが用いる「侵食する海」のイメジはシェークスピアのそれと一緒で陸と海が隆替を繰り返すものとなっている。だが、これは人生や歴史を歌ったものではなく、一個の人間の才能の様相を歌ったものである。この直後に「記憶力」「判断力」「想像力」といったジョン・ロックが好みそうな諸能力(と、それが隆替していく様)を具象的なイメジを用いて歌っている。ここにはダンやシェークスピアのような広がりは感じられない。もっと細かく、小さな世界を精緻なイメジを駆使して分析するエートスが働いている。そして、このパラグラフの最後は

Like Kings we lose the Conquests gain'd before,
By vain Ambition still to make them more:
Each might his sev'ral Province well command,
Wou'd all but stoop to what they understand.
64-67
(国王たちのように、私たちは以前に征服したものを
もっと殖やそうと空頼みの野心を起こして失ってしまうのだ。
自分で理解しているものにだけ身を屈めていれば
誰でも各々の領地をよく治められるはずなのに)

と世間知のような言葉で結ばれているのが面白い。ポウプは若くしてこの作品を書いた。そのためダンやシェークスピアのような深みがないのは仕方がない。しかし、深みに欠けるのと同時に変に老成しているのはなぜだろう。

When I have seen the hungry ocean gain

When I have seen the hungry ocean gain
Advantage on the kingdom of the shore,
And the firm soil win of the watery main,
Increasing store with loss and loss with store;
--Sonnet 64
(飢えた海洋が陸の王国を侵食し、
こんどは固い大地が大海原に打ち勝ち、
損得が互いに隆替していく様を
私が目にする時に)

ダンのところでも少し触れたが、海による陸の侵食のイメジを用いたシェークスピアの『ソネット』64番からの四行連(quatrain)である。どちらも死を示すイメジとして用いているのであるが、ダンの場合一方的に陸地が海洋によって侵食され減少していく直線的なものであるのに対して、こちらは陸と海とが相争い、互いに勝ったり負けたりしてゆくダイナミズムを含んでいる点で好きである。人生というのは確かに、死を目指してのろのろと這っていくようなものかもしれない。しかしそこには勝ったり負けたりのドラマがあるし、またそのドラマを行き切ってこそ、死の意味を創り出すことが可能になるのではないだろうか?いずれにせよ、人は雨が降るように死んでいくのだから。
この陸と海との戦いはポウプの手に掛かると、縮小化されて才能や性向を示すイメジとしてのんきに用いられるようになる。

No man is an Island,

No man is an Island, entire of itself; every man is a piece of the Continent, a part of the main; if a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if a manor of thy friends or of thine own were; any man's death diminishes me, because I am involved in Mankind; And therefore never send to know for whom the bell tolls; It tolls for thee.
John Donne, "Meditation XVII"

(人間は島ではない。人間はそれ自身で全体ではない。全ての人間は大陸の一部、本土の一角なのだ。土くれが海によって洗い流されれば、ヨーロッパはそれだけ小さくなる。ちょうど、岬が縮小されるように、そして君の友人や君自身の荘園が減っていくように。誰かの死は私自身を小さくするのだ、なぜならば私は人類全体に含まれているのだから。だから決して誰がために鐘は鳴るのか知ろうとしてはならない。鐘は君のために鳴るのだ。)

ジョン・ダンの文「瞑想17」の一節である。この一節は締めくくりの"for whom the bell tolls"(誰がために鐘は鳴る)が後にヘミングウェイの同名の小説のタイトルとなったことでも有名である。ここでいう"bell"とは"passing-bell"、すなわち弔鐘のことであり、鐘が鳴ったからといって人を遣って誰が死んだのかを問わせてはならないという意味である。
ここで語られている個と類の関係性は古くから思想のトポスとなっているし、海に侵食される大地のイメジもシェイクスピアの『ソネット』やポウプの『批評論』でも用いられるおなじみのものである。私が面白いと思うのは、日本人から見れば、イギリス人は島のような人々であるし、それも絶海の孤島みたいな人が多いように思える事である。むしろそういう人が多いところだからこそ、このような思想が強調されるのかもしれない。

all too brief

You see, Adso, the step between ecstatic vision and sinful frenzy is all too brief.
--The Name of the Rose
(よいか、アドソ、恍惚の幻視と肉欲の罪深き熱狂との差はあまりにも僅かなものなのだ)
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映画『薔薇の名前』で「バスカーヴィルのウィリアム」(ショーン・コネリー)が口にする台詞である。弟子アドソに対して異端(「罪深き熱狂」)の説明をしているのだ。映画ではわかりづらいが原作を読むと、実はこの台詞がウィリアム陣営(フランシスコ修道会)の指導者「カサレのウベルティーノ」に対して言われたものであるという事が分かる。彼もまた、恍惚の幻視によって導かれ修行しているという設定であるのだ。つまり、ウィリアムから見ればウベルティーノの「正統」の幻視も、彼が告発する「異端」の熱狂も、その差はごく小さいと言っているわけである。
修道士ウィリアムは当時の「スコラ哲学」を信奉しており、神学を理性で理解しようと勤めていた人物という設定である。したがって、奇跡や幻視などに頼る信仰にはきわめて批判的だ。彼にとっては相手の無知につけこんで人を脅すことによって集める尊敬などは唾棄すべきものなのである。そしてこうした教義に人がのめりこんで行く原因に「純粋さ」を挙げている点が興味深い。原作では次のような問答が師弟の間でなされる:

ウィリアム「だが、純粋さというのは何であれ、私を恐れさせる」
アドソ「純粋さの何があなたをもっとも恐れさせるのですか?」
ウィリアム「性急な点だよ」

現代でいえば「原理主義」や「過激派」といわれるももの姿をよく捉えている。事実、著者であるウンベルト・エコーはイタリアの「過激派」が純粋な理念から出発しながらも、現実との格闘の中で失望と焦燥から自滅的なテロ行為へと走っていった姿を重ね合わせてこれを書いた、とも言われている。
「改革を夢見る純粋な魂が・・・現実の社会の大地に、根を張り、枝を茂らせて」行けるように粘り強く努力していくこと、そこに信仰する意味があるのではないだろうか?

Here lies one who often lied before

Here lies one who often lied before,
But now he lies here, he lies no more.
--an epitaph
(ここにかつてしばしば嘘をついた者が横たわる
もうここに横たわっているから、嘘はつかない)

某弁護士の墓碑銘(epitaph)である。この墓碑銘は洒落(word play)の教材として用いられる有名なものである。今日がApril Foolなので取り上げてみた。弁護士がすべて嘘をつく(lie)かどうかは分からないが、弁護士といわずすべての人はいずれ目をつむって横たわる(lie)のは間違いのないところである。

Pelikan NYC

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つい最近までPelikan社では「都市シリーズ」という限定万年筆を出していた(最新作はPiazza Navonaというローマの観光名所に因んだ商品となり、「都市シリーズ」から「名所シリーズ」に変わってしまったようである)。ベルリンから始まってストックホルム、マドリッド等々続き、打ち止めは上海となった。個人的には「限定品」などにはとても「強くて」あまり心動かされないのであるが、いずれ「ロンドン」や「ニューヨーク」あるいは「ストラットフォード・アポン・エイヴォン」が出たら買ってみようぐらいに思っていた。結局「ストラットフォード」は当然として「ロンドン」も出ずじまいであったので、「ニューヨーク」のみを購入したのだが、これが質感の低いこと夥しい。シリーズ通してもっとも安っぽく見える。
安っぽく見える原因はその「ウシ」というか「ゲートウェイ」のようなデザインのせいでであるが、一つには(こう言っては悪いけれど)「トンボ・モノボール」と類似している点がある。以前ボールペンのところで書いたように、私は学生時代を通してずっと水性ペンを使用していたのであるが、それはこのモノボールであった。書きやすさは抜群なのだが、使っているうちに白い表面塗装が剥げてきて「まだら」になる。そうなった時の姿が「ペリカン・ニューヨーク」にクリソツなのだ。
ということで後悔しているかというとそうではない。質感のなさが幸いしてガシガシ使う事ができる。ペン先はF。インクはトンボ・モノボールの青によく似てくっきりとした「オマス・ローマンブルー」という妙に値段の高いインクを入れている。これで書くと字が一段上手になったような気分になれるという魔法のインクである(笑)。そして馴染んでくると、「剥げたモノボール」のようなこの万年筆が実に渋くよく出来たデザインであるように思えてくるから不思議だ。

限定品ではあるがあまり売れなかったのか、今でもたまに売られているペンである。

無根拠なオレンジ

本州太平洋側の人間は鮮やかな緑を好み、さらに九州や沖縄になるとオレンジや赤を好むようになると昔なにかの話に聞いた。太陽光線の強さと、その地域の人々が好む色には相関関係があるという話だ。私は最近とみに「オレンジ色」に惹かれるようになって困っている。オレンジ熱といってもいい。なぜ困っているかというと「いまさらオレンジ色って歳でもあるまい」という色と年齢との間の無根拠な思いこみが原因である。根拠がある思いこみというのは、その根拠を検証し批判すれば思いこみ本体も解消されるから大して困らないのであるが、無根拠の思いこみというのはあらゆるところから根拠を引っ張って来たりしてなかなか無くならない。これは無根拠な差別や偏見は、無根拠であるがゆえに却って強力である事からも分かるが、ここはそういう大切でムズカシイことはちょっとおいといて次に進む。
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数年前に「ロディア」(上の写真)を買ったのがオレンジ熱の始まりであった。当時、「大人といえば黒革でしょう?」と無根拠に思っていたのだが、この黒革製品の間にオレンジのロディアが挟まると鮮烈な存在感を発揮した。これが始まりとなり、電子辞書のケースもオレンジ、ペンも以前紹介した「bicオレンジ」やカラン・ダッシュの100円ボールペン、ついにはクレールフォンテーヌのノート、そしてラミーサファリ限定色(オレンジ)なんていう商品まで買うにいたった。仕事で使うテクストも内容ではなく表紙がオレンジ色であるかで決めた(のは嘘)。しかし、そうしてオレンジで固めてしまうと、結局オレンジの鮮烈さはすっかり失せてしまい、凡庸な色合いに見えてくるのである。この辺に人間の慣れのイヤラシサというか、どうして人は物を買いつづけ(させられ)るのかという問題が垣間見える。
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いまもっとも欲しいと思っているオレンジ色の商品はデルタというペンメーカーの「ドルチェヴィータ」という万年筆である(上の写真)。これ一本さえあればうちの机の上も見違えるほど華やぐのに買えずに困っている。なぜ困っているかというと「お金が無い」という揺るがしがたい根拠があるからである。

ところで、私のオレンジ熱が発症したのはいまから数年前、ちょうど温暖化が騒がれだし、事実東京の夏が非常に暑くなりだした頃である。これはいままで九州沖縄で好まれるとされていた「色の緯度」が上がりだした証拠である、というのが無根拠な思い込みならよいのだけれど。

アメリカの匂いのするノート

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学生時代、アメリカ帰りの子に「ミードノート」をもらうことがよくあった。紙質は最悪、万年筆や水性ペンで書いたら確実に裏抜けするシロモノだった。かといって鉛筆で書いてもあまり乗りが良くなくてどうにも使いでがよくなかった。作りも粗雑で、いかにも「アメリカ製!」って感じである(これが一種のステレオタイプだったという事は後に知る)。しかし、短期留学の帰国シーズンになったりするとこれを10冊近く貰ってしまう訳だ。おそらく値段が安く、アメリカ感が強いからだったのだろう、どの子も買ってきてたりした。しかも1冊に紙が120枚とか180枚とか使われているから1冊で1年分のノートになりそうな勢いなのだ。しかし、裏抜けするし鉛筆の乗りが悪い。
結局これらのノートは仕方なく片面使用で水性ペンを使ってブレインストーミングやペーパーのドラフト書きなどに使う事にした。ところがいざ使ってみると結構重宝するものなのだ。いま言ったように紙質、作りとも悪いのだが、そのたたずまいのせいで間違いなど気にせず、どんどん書いていく事ができる。またプリンとした高級な紙質のノートよりも心なしかめくるのが苦にならないし、ページを改めても気持ちが改まったりしないから、かえってアイデアが途切れずに書きつづけられる。振りかえって見れば、授業のペーパーどころか卒論の下書きにもこれが活躍していた。まだパソコンがそれほど普及してなく、ワープロは「清書用」と思われていた頃の話ではある。以前引っ越したときにまとめて捨ててしまったが、今残っていれば・・・・・やはりいつ処分しようか考えている事だろう(笑)

現在ではソニプラなどで気軽に手に入るがあまり使ってはいない。一昨年買った1冊がまだ半分以上残っている。