numquam enim nisi navi plena tollo vectorem
(私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから)
Macrobius, Saturnalia, II, 5, 9-10.
ラテン語である。私がこのテクストに出会ったのはちょうど大学院の2年目で、「古典語」の講座が人文学科の学部生向けに開設されたので担当教員にお願いして参加したときのことであった。
これほど悩んだ一節はなかった(英語も含めて)。辞書を引いて単語の意味は理解できた。文法書を丹念に読んで文のシンタックス(統語)も大丈夫だと思った。つまり、上の和訳はちゃんとできているのである。にもかかわらず、何を言っているのか全く意味が分からなかった。たぶん読んでいる人も「私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから」といわれても意味が分からないと思う。ここでいう意味とは「なぜそういう言説が発生するのか」ということだ。
結局翌週になって担当の先生に上に書いたようなことをぶつけてみるとこうおっしゃった。「これはアウグストゥスの娘が、男出入りが激しかったのに、産まれた子供がみんな夫に(ちゃんと)似ているわけを質問されて答えたものですよ」、と。それでやっと分かった。つまり、妊娠しているときにしか、別の男と寝ないということなのだ。これが分かったときにはあまりにうれしくて普段高くて食べないパリのランチを奮発した。以来私は、訳すことはできてもテクストの背後の意味が分からない状態を「ニシナビプレナ」といって自分を戒める標語にしている。
ここから一つのことが導かれた。英語を含む外国語であれ母国語であれ、「分からない」というとき3つの段階に分かれると。
一つは、単語が分からない状態である。この状態の対処法は一つ。辞書を引くか、知っている人に訊くことである。
二つ目は、単語は分かるけれどそれらがどのようにつながっているのか分からない、つまり統語が理解できない状態である。この場合は、分かっている人に訊くのが一番速い。
最後に、単語も統語も理解できるのにそれが何をいっているのか皆目分からない状態(私のいう「ニシナビプレナ」)である。このときは、それを知っていそうな人に訊くのが近道であるが、訊いたところで分からないときもある。たとえば上の一節を私が小学生で、セックスのセの字も妊娠にメカニズムも知らないときに読んで先生の説明を聞いたとしても分かるわけがない。こういうときにいまの学生はどうするのだろう?「習っていない」といって開き直り、「教え方が悪い」といって責任を転嫁するのだろうか?それともセックスのセの字ぐらいは知ろうと、赤ちゃんができる神秘ぐらいは知ろうと教員に食らいついたり、自分で勉強しようとするのであろうか?少なくとも、後者でなければ大成する見込みはないと思う。
しかし、もっと心配なことがある。それは「私は、船荷がいっぱいになるまでは乗客を乗せませんから」と日本語に直した時点で安心してテキストも辞書も、そして思考回路も閉じてしまうことである。そしてそういうタイプの学生は年々増えているような気がするのである。