カントのもたらした比類なき転回とは、それまで迷信のようなものが理性の正しい使用を妨げ、その結果人は誤ると考えられていたものを、むしろ理性そのものの中に誤謬の原因があると指摘したことでした。これが一般的な「啓蒙思想家」達とカントという一人の思想家との決定的な違いです。このことを行ったのは『純粋理性批判』という大著においてでしたが、もう一つそれに匹敵するほどの大転回を成し遂げているのがこの『啓蒙とは何か』です。
一般に私たちが「ホンネと建前」というとき、ホンネというのは私たち自身の直接的な思いであり、一方建前とは共同体の一員としてそういわざるを得ないような嘘を指すことが多いわけです。したがって、ホンネとはプライベート(私的)な思い、建前とはパブリック(公的)な思想である、このように私たちは漫然と考えているわけです。
カントはこれを鮮やかに転回してしまいます。
自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい(中略)ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、---公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。
これは当然、学者の特権をいったのではなく、一人の人間が職業人として発言する場合には私的(プライベート)な発言であるが、一人の人間として発言する場合には、それは公的(パブリック)な発言である、という意味である。これは私たちの抱く「プライベート?パブリック」とは全く逆向きの発想ではないでしょうか?
たとえ会社のことや世間のことをおもんぱかって「建前」を並べ立てても、それはあくまで会社や世間(あるいは国家)という私的共同体のプライベートな価値基準にすり寄ったに過ぎない、それに対して一個の人間として理性を(何ものにも妨げられることなく自由に)使用することは、パブリックに考えることであるというのがカントの言っていることなのです。それに対して私たちがいうホンネとは、理性を使用していない状態、自由とは反対に自分の欲望に(そして欲望とはヘーゲルがいうように実は常に他者の欲望です)隷属している状態に過ぎないのです。私たちがこの本から学ぶべき大切なことは、一個の人間として自立して考えることであり、そのためには「勇気」が必要であるということです。そしてカント自身が、まさにここに書かれているように自立して、パブリックに考えたことを問うていることが私たちを感動させ、勇気を与えるのです。真に勇気づけられる書物というのはこういうものを指すのだと思います。